片付かぬまま。
内山興正著『大空が語りかける-興正法句詩抄』(p21)より。
片付かぬまま
愁いの雲は 愁いの雲のまま
悲しみの雨は 悲しみの雨のまま
怒りのあらしは 怒りのあらしのまま
すべて片付かぬまま
思い手放しのところに
ただじっと坐る
大空が
雲ぐるみの
大空であるように
内山興正著『大空が語りかける-興正法句詩抄』(p21)より。
片付かぬまま
愁いの雲は 愁いの雲のまま
悲しみの雨は 悲しみの雨のまま
怒りのあらしは 怒りのあらしのまま
すべて片付かぬまま
思い手放しのところに
ただじっと坐る
大空が
雲ぐるみの
大空であるように
先月初め,たまたまつけたTV番組で見た噛み合わせを良くする「ベロまわし体操」。
噛み合わせというか,口を大きく開けるたびにガクガクなる顎を何とかしたくて,早速,毎日,無理のない程度に(=気が向いたら)やってみている。
最初は,後ろ首やらの筋肉痛やらで少々こまったけれど,顎のガクガクは大分解消されてるように感じる。

それでもって,坐禅もしやすくなった感じがする!
これまでは,坐っているときの姿勢が自ずと調整される(「坐相を定める」のでなくて「坐相が定まる」,「覚触する」のではなく「覚触が起こる」)坐り方を求めて,あれこれ試したりしたけれど,今回はイケている気がする…。
奥歯と奥歯が噛み合ってるこの感じは,ちょっと経験したことのない心地よさ。
奥歯と奥歯が自然に合うと,舌も上顎にピタッとくるし,作為的に噛み締めているのではないので,顎が微妙に動く自由度もある。
その顎が微妙な動きが,首から下の筋肉に伝わって(?),姿勢が自然に調整されるように感じる。
おもしろいことに,奥歯と奥歯が自然に合っていると,法界定印の親指と親指の接触もキープされる(というか,眠くなったり気が緩んでだりして,パカッと開いたりしない)。
当たり前といえば当たり前なんだろうけど,カラダってほんと不思議~,カラダってエライ!

手作り塩麹,その2。
12月19日に仕込んだので,ちょうど3週間。
今回は,初回の塩麹よりも,よく出来上がったように思います。
甘酒をしょっぱくした感じ,という表現がぴったりです。

手作り塩麹です。
本屋さんで『麹のレシピ』が陳列してあるのが目に入り,思わず購入。
友人から発酵食品を作ったり食べたりして楽しむクラブに誘われていたこともあって,ネットで米麹を購入,10月中旬に下の材料で仕込みました。
生麹をバラバラにほぐして塩とよく混ぜたのち,水を加えてよく混ぜ,ねかせるだけです。
・生の米麹…200g。
・塩…60g。
・水…200cc。
数日ねかせたところで水が少ないようだったので,さらに50cc〜100cc加水して混ぜました。
2週間くらいったところで冷蔵庫に入れて,保存していました。茶褐色に見えますが,これは,購入した生麹自体が真っ白ではなかったためです。
いろいろな料理に使って試しています。
鰆の塩麹漬け焼きは,寝る前に鰆に塩麹を塗ってビニール袋で密閉して漬け込みました。翌朝塩麹を適度に落として魚焼きグリルで焼きました。塩味・甘味もしっかりついていて美味でした。

鶏ささみや胸肉の塩麹漬けは,お肉がしっとり仕上がって,美味しさup。


春菊とエビの塩麹マヨネーズ和え,味全体にまとまりが出て,味がふくらむ感じ。

丸天と小かぶの葉っぱと小松の炒め物も…。

炒り卵の調味にも使ってみました。加えた量にもよるのでしょうが,調味料しました,って感じじゃなく,自然の卵の風味が引き立ちます。卵の味を下支えってという感じでしょうか。

手作りの調味料を作って使うことで,なんだか,生活にリズムが出てくる感じがします…。
『共に育つ』は,内山興正老師のお弟子さんで,老師の著作の編集もされている櫛谷宗則さんが発行されている冊子です。この度,『共に育つ』第13号が発行されました(2011.05.08発行)。申し込みは,下記の住所におハガキで!折り返し,冊子と振替用紙が届きますので,冊子代500円と送料を振り込んで下さい。
〒959-1835 新潟県五泉市今泉1331
櫛谷宗則 宛
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共に育つ 第13号 —目次ー
禅が語りかける …… 内山興正(2頁)
☆老いをいただく の章
聞こえますか,私の声が …… 石本慈敬(14頁)
憚りながら認知症 …… 水野吉治(19頁)
人生の詰を生きて …… 長友トミ子(25頁)
老いるということ …… 濱田智子(32頁)
生まれて生きられてよかった …… 岡 庸子(37頁)
お念仏のなかに生きる …… 有山良子(44頁)
念仏申したら自分が見える …… 榎本栄一(49頁)
☆あなたにとって一番大切なものは の章
左側の席 …… 村田啓子(58頁)
木陰なう …… 月原いのこ(63頁)
一番大切にしているもの …… 神田和亮(68頁)
妙,不可思議 …… 畑中猶三(74頁)
手技のこころ …… 安生充彦(80頁)
自分の正体 …… 山内庸行(84頁)
原風景について …… 波多江研祐(89頁)
いのちの坐禅 …… 櫛谷宗則(95頁)
編集後記 …… (99頁)
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《編集後記》
皆様お元気でお過ごしでしたでしょうか。
3月11日の東日本大震災の起きた日,いかがお過ごしでしたか。被災された方に心からお見舞い申し上げ,お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りするばかりです。
こうして新たな「共に育つ」をお届けできますこと,あらゆるご縁のお陰と感謝しております。今回,ずっと温めていた内山老師の言葉を編集して載せさせてもらいました。また時に問い合わせがある榎本栄一さんの文を,増補して掲載しました。他の文もみな心のこもったもの,新たな風があり,模索する魂があり,祈りがあり,どうぞすべての文に目を通していただけましたら嬉しいです。
「全体的になにかとても清々しく,それがその人たちの深い心からきているような文章が多い委員賞でした」とのお便りを読者の方からいただき,有難く思いました。
それは自分の体験の心のありさまを,人に対してひけらかすのではなく,書くことによってただ自分が自分に照らされている,ただ謙虚に照らされている,そんな清々しさではないかと思いました。
本当に豊かな世界は自分のとぼしい体験にとどまることなく,自分を超えた大いなるいのちの世界につながっていくところにあるでしょう。そのいのちの声を自らにおいて聞き,おのずと語ってくださっているのでしょう。この「共に育つ」を編集することによって一番,私が教えられ励まされている気がします。
「みんな生きていてよかった。子どもたちの元気な姿,笑顔が希望です」と,被災された方がいわれました。−生きていることが希望ですと。
思いではまったく絶望している。なんの光も展望もない。どうしよう,どうしよう…。
しかしいま,そんな思い以前に生きているという面もあるのではないでしょうか。思いでは量り切れない深さから,初めて私は生きています。本当は何ひとつ持たず裸で生まれてきました。そしてどれだけ財や名を成し,何を築き上げようと,そのすべてを奪われてもとの裸で死んでいきます。謙虚に生きなくてはと,自分に思います。ただ祈るように,いのちの光に静まっています。
無惨な町並みのうえに今日も青空は広がり,限りない光が降りそそぐでしょう。その向こうの野原には,やがて白い花がいっぱいに咲き乱れるでしょう。「主は与え,主は取られる」—無惨は無惨,哀しみは哀しみ。そして不思議に与えられて生きているいま,真っ白い花がいっぱいに咲き乱れる。生きていることが希望ですと。
次号で内山老師のお手紙の特集をやりたいと思っています。老師からのお手紙をお持ちの方,ご一報頂けましたら有難いです。そして皆様どうぞお元気でお過ごしください。
(櫛谷宗則)
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昨年の1月17日から始めた毎日の朝ご飯の記録「朝ごはんブログ」,現在も継続中。
1年経ったので,ココログ(niftyのブログ)の出版サービスを利用して,本にしてみた。
毎日の朝ご飯を載せているだけなのだけれど,私的には何か面白い。ただし,載せている内容には,あまり意味や価値はない。ひとさまのお役に立つようなレシピでも,見てもらうための配膳でもないので…。
1年の継続の成果は,当たり前だけれど,非常に重要なことについての気づき。ただ,毎日,朝ご飯をつくって,あるいは食べた食事を載せる,という行為をしている自分自身の気づきに意味や価値がある。
朝ごはんブログを始めて3ヶ月余り経った頃,
「自分の感情や思いって,寄りかかるほど実体のあるものではないのだなぁ…」
ということが,何となく見えてくる。
のれんに寄りかかろうとしても無理なように,感情や思いは寄りかかるような実体のあるものではないことが,感覚として何となく分かってくる。またその一方で,寄りかかれないのれんに,わざわざぶら下がるようにして,寄りかかろうとしている自分がいることも見えてくる。
10ヶ月余り経った頃,
「今日は昨日と違う…」
ということに気づく。
毎日,同じ台所に立って朝ご飯つくっているのに,ある日,台所と自分の関係が昨日と違ってしっくりしているとかいないとか…そんな周りのものとの関係が昨日とは違う日のあることに気づく。どうやら,自分は毎日同じ空間を同じように生きているのではないらしいことが,予感される。
そして1年経った頃,ふと,
「ぶっ続き,なんだな…」
と気づく。今,自分がここにこうしているのも,世界とぶっ続いていてこそ,なんだな…と何となく分かる。
そういえば…以前,師匠の宮浦老師が,ある参禅者に「坐禅をして何が分かるのか,どうなるのか」と問われて,どうもならないと応えたあとに,こう続けられた。
「"ぶっつづき"ということが,だんだんとはっきりしてくるんだよ」
もう10年も前のことなのだけれど,その時の師匠の「"ぶっつづき"ということが,だんだんとはっきりしてくるんだよ」という声が,今やっと耳の奥までやっと届いたような気がしている。
一夜賢者の偈
過ぎ去れることを追うなかれ。
未だ来たらざることをおもうことなかれ。
過去,それはすでに捨てられたり。
未来,それはいまだ到らざるなり。
されば,ただ現在するところのものを,そのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく,動ずることなく,それを見極め,それを実践すべし。
ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。
誰が明日死のあることを知らんや。
まことにかの死の大軍と,遇わずと言うのはあることなし。
よくかくのごとく見極めたるものは,心をこめ,昼夜怠ることなく実践せん。
かくのごときを一夜賢者といい,また,心しずまれる者とはいうなり。
「死に時になったら死ぬ」ってあるんじゃないだろうか…と,お葬式で最後のお別れをしながら,ふと思った。
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「黙って死ね」
内山興正老師『生命の働き―知事清規を味わう』123-125頁より。
…人生において弁解や理屈の通るときは大いに通したらいいんだけど,ときとしてはそれが通らないことだってある。そういう場面に出逢ったら黙って死ぬより仕方ないんだ。
私たちの仲間に禅徹道機上座という人がいた。なかなかしっかりした人だったけれど,兵隊にとられて戦死した。この人が戦争にいって最期に大連から長い手紙をよこした。その中に「オレみたいな有望な青年たちがこの戦争で敵の弾丸一発で死ぬ。そんな馬鹿なことがあっていいのだろうか,そう考えてはみるけれど,しかしそのときは黙って死ぬより他ない。」と書いてきた。だからなるべく鉄砲玉のこないところで生きようとすることが大切だけど,しかし鉄砲玉がどんどんくるようなところへ出されることだってある。人間にはどんなことだってある。わたしなんかはこれで還暦まで生きのびてきたけれど,それはありがたいと言わなければならない。しかしやはりそうしたわたしでも,黙って死ぬということはいつも覚悟しなければならなかったことは何度もある。
私が西郷南洲翁の伝を読んだのは東京の至誠寮にいたときのことでしたが,その本によると,西南戦役を実際に引き起こしたのはだいたい桐野利秋なのだそうです。それで最期に城山で切腹するときに,西郷南洲の弟が「桐野利秋のために俺たちは死ななければならないんだ。」と南洲に愚痴を言った。そしたら西郷南洲は「黙って死ね。」と言ったと書いてあった。ちょうどこれを読んだころ,いろいろ複雑な事件が起こっていて,私自身もそれこそ黙って死ななければならない破目に追い込まれていたので,この言葉に特に感銘した。それでその後,防府(山口県)の護国寺で摂心があり,そこに行っていたとき,わたしは沢木老子からさんざんにひどく怒られたことがあったが,わたしは全く死んだつもりで一切弁解せず,全く黙っていることができた。
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こういう四聖諦の読み方は,「内山興正=行」であるからこそ,出て来る言葉だと思う。
仏教の教えは如何なる意味かを解釈している本は多いけれど,内山老師や澤木老師のように「仏教の教えを実践するとは如何なることか」というスタンスで語っている人は少ない…と思う。
内山興正『自己-宗派でない宗教』(p246-249)より。
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してみれば四聖諦にしても,「苦のもとは欲望である」,それゆえ欲望を滅すれば,寂滅の楽が得られる」などといういいかたをすればアヤマリです。
「寂滅の楽を得ようとする,そのことが欲望ではないか」と,かって発したわたしの疑問は,けっしてアヤマッテはいませんでした。寂滅の楽をえんとする欲望がそのまま,かえって修行者をして,抜くべからざるディレンマに追いこむだけですから。
-真実の佛法のおしえは,そんなことではありません。
「欲から苦が生ずる私がある。」
-まず苦,集の二諦は,かくおしえます。これは流転輪廻する自分のすがたのことをいうのです。
しかし同時に「これとまったくちがった自己」があります。それはつぎの滅,道の二諦がおしえる。
「道をあゆむなかには,寂滅している自己がある。」
ということです。
四聖諦はただこの二つの自己の道をならべてみせるだけです。
(略)
だから坐禅してぼつぼつ思いをしずめようとしたとて,じつは坐禅のなかには,しずめるべき何ものもありません。坐禅はただ(祗管)坐禅するだけです。坐禅は,坐禅の独悟現成でのみあります。
---------------------------------------------------
7月4日(日)のNHK教育テレビ「こころの時代」に藤田一照さんが出演されます。
<放送内容>
出演:禅僧 藤田 一照 ききて:山田 誠浩
〜坐禅 結果自然成(けっかじねんじょう)〜
禅僧の藤田一照さんは30年前、心理学を学ぶ大学院生の時、坐禅(ざぜん)にであった。研究者の道を捨て、自給自足の暮らしをしながらひたすら坐禅する兵庫県安泰寺で修行。以来、日米の禅堂で「坐禅とは何か」を探究してきた。
坐禅は「我慢力を鍛えるものでなく関係性を変えるもの」「するものでなく成っていくもの」。その体験にもとづく坐禅論を聞く。
7月 4日(日)教育テレビ 午前 5:00~6:00
7月 12日(月)教育テレビ 午後 2:00~3:00
7月 4日(日)デジタル 教育3 午後 0:00~1:00
「するものでなく成っていくもの」。放送が楽しみです!
坐禅が本当に円熟して来ると,一堂に何十人坐っていても,十分か二十分は,実にシーンとして,それだけの人間が居るとは思われぬまでに,それこそ物凄い程静かな澄んだ雰囲気が出来る。その雰囲気が出来ることが大事なのです。
僧堂などでも,嫌な奴をやらすものだから,首をふったり,モソモソしよる。能う居眠る。禅宗坊主になった以上は坐禅になり切らねばならぬ。もっと坐禅が好きにならねばならぬ。それが,バラバラに徳利を並べた様な坐禅では何にもならぬ。
在家の坐禅では居眠りは能うやる。居眠りをやめたと思うたら五分に一回位腕時計を見よる。ソロソロ厭きて来ると又船を漕ぎ出す,頬杖をつく,そしてこんな足の痛いことはどもならんと横着なことを云う。これでは一番大切な雰囲気などは容易に出来ない。
この雰囲気が出来れば,何十人一所に居っても,全体が透明になる。一歩進めば大円鏡智と云うて,広く大きな鏡の如く,時間空間が透明になる。それに自己を見出せば,これはいつもの自己と又別の自己であります。石頭大師が『回光返照便ち還り来たる。霊根に廓達すれば向背にあらず』と云うて居られるが,吾々が回光返照すると云うのは,天地と同根,万物と一体の自己を体験するのです。

思うところあって,毎日の朝ごはんをブログにup,ということをはじめて110日。何となく見えて来たことが,一つ。
「自分の感情や思いって,寄りかかるほど実体のあるものではないのだなぁ…」
ということ。
朝ごはんを食べたくない日,つくりたくない日,朝からいろいろつくりたい日(というのは,ほとんどないが…),時間がない!日…いろいろ感情や思いは湧いてくるくるのだけれど,それって「朝ごはんをつくる」ということとは関係ない。
朝ごはんを毎朝up!ということが歯止めとなっていることもあって,「それはそれとして,朝ごはんをつくる」ということを110日やってみると,
「今朝は,朝ごはんを○○○だ。だから,朝ごはんを△△△する」。
この「だから」というのは,全然意味ない…というか,自分の頭を納得させる言葉にしか過ぎないことが分かる。
というのは後付けの理屈で,何とはなく,
「感情や思いって,寄りかかるほどのものじゃないなぁ…」
と,体感として感じる。のれんに寄りかかろうとして無理なことが感覚として分かるように。
しかし,その一方で,寄りかかれないのれんに,わざわざぶら下がるようにして,寄りかかろうとしている自分も居たりして。
まだまだ朝ごはんブログの実践は続く…。
人間は何度も何度もこの世の中に生まれて来ることは出来ない。人間がこの世の中に生まれて来るのはただ一度です。たまたま人間として生まれて来た,この大切な一生を,何の願も立てずに空しく過ごしてしまうということは,まことに勿体ないことである。高い願を立て,その願を成就しようと努力してゆく,そこにこの世に生きてゆくはげみがあるのです。またその人の願の高い低いによって,その人の値打ちも自然にきまるわけであります。
願に生きる。そこに生き甲斐があるのです。願が成就ということのために,自分の身心を投げ入れる。この場合その願が,人類永遠の福祉のためのものであれば,願が成就する。せぬはすでに問題でなく,その願に生きて行くところに,永遠の生命を感得することが出来るのです。
願のない人のすることは,人生に何の方針もなければ,家庭にも全く方針がない。国にしても国策なしに,やたら税金を取られたら人民はたまったものではない。国家も国家の願がなければならないし,家庭には家庭の願がなければならぬ。
(中略)
国に国策があるように,家庭には家庭策が必要である。つまり,願をもたない家庭は何するための家庭が解らない。一体われわれは何の願があって飯を食うてこうしているのか,もう一つ根本に行けば,何のために生まれたかという人間最終の使命を見出さなければならぬ。
★藤田一照さんさんが寄稿されています。
「坐禅は習禅にあらず」サンガジャパン Vol.1(2010Spring),pp88-100。
★藤田一照さん主催の坐禅会「磨磚会」のお知らせ。
藤田一照師は,2010年4月からサンフランシスコの曹洞宗国際センター所長に就任されます。よって,同年4月以降の坐禅会は,不定期開催となります。参禅希望の方は,必ず,事前に日程を問い合わせてください。
澤木興道著『禅談』より。(H8年復刊第18刷:pp186-189)。
禅宗坊主に『脚下を照顧せよ』という言葉がある。足許を照らせということである。足許を顧みよということである。更にいえば貴様はどうかということである。そうすると此の『脚下を照顧せよ』ということは,自己の生活に何時も立戻れということである。
それには大きい鏡がなければならぬ。此の鏡に始終自分を写して見ることである。地獄でいうたら浄玻璃の鏡である。
地獄,極楽の絵を見ると,よく亡者を引掴えて鏡を見せているのがある。鏡には荷物を持って逃げようとしているところが映っている。此の鏡が則ち吾々の業鏡で,各々(めいめい)自分で持っている訳です。そして各々の境涯に相応した業を映している。専門の言葉でいえば是が第八阿頼耶識です。
その鏡の中に,何も映らない世界,そういう世界は一体どこにあるのか。この何にも映らない世界は悟りの世界であり,坐禅の世界である。出る息,引く息に,出る息は出る息限り,引く息は引く息限りに,念々不断に回光返照して,本当の自分を見つめて行く世界である。ここのところを『普勧坐禅儀』には,『所以に須く言を尋ね語を遂ふの解行を休すべし。須く回光返照の退歩を学すべし。』
と仰せられてある。
(中略)
この回光返照の退歩というのは,正しく坐禅をすることで,字の訳や,典拠振りまわす様なことはせんでも,宏智禅師もいわれている様に『退歩は己れにつく』であるから,自己に親しむ工夫をしなければならぬということです。したがって私たちの一番努力せなければならぬ事は,この回光返照の退歩を学するということです。左之右之,あらゆる時,あらゆる場合にこの工夫を要するのである。
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