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2005年11月28日 (月)

「聞く」ということ

遅まきなら韓氏意拳を通して,"ただ坐る"ことの方向性ってこっちだよね…とやっと分かりはじめたこの頃。

自分がコーチングをするからかもしれないけれど,この「ただ」の方向性,自分のなかでは,「聴く(傾聴)」ということと,とても似ている感じがする。
普段,「よく聞く」というと,相手の話の内容,もう少し深めて話の文脈や枠組みを聞くという理解になると思うのだけれど,これが「傾聴する」となると,相手の雰囲気やエネルギーなどとその変化,自分と相手との空間で起きているさまざまなことも聴く。

こうなると,「きく」という行為は,耳だけで行う聴覚の問題だけではなく,視覚や触覚,内部感覚など,身体の全感覚を使って行う行為だ。

聖書では「よく聞け」と,たくさん呼びかけられているけれど,これはまさにこういうホリスティックな傾聴モードだと思う。

これって「聞く」だけではなくて,「みる」でも同じだろう。

11/25のブログで,『典座教訓』の一説「不可一念踈怠緩慢。一事管看。一事不管看。」を取り上げたけれど,この「看(みる)」も,眼で視覚的に見るだけではなく,身体の全感覚を使ってみるということじゃないだろうか。

内山興正老師の著作に「世音を観ず」という詞がある。

なるほど…。そうなんだよね。
「坐禅に自分の全部を投げ込む」というような表現がされるけれど,それって単なる心構えやシステム的な喩え話ではなく,自分の全感覚を総動員した実践の喩えなんだな…と眼から鱗の今日この頃。

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「世 音 を 観 ず」

世音を観ず

しっ。しずかに−。
お前には あの鈍い
しかし絶対的に底力のある
大自然運行のひびきが
聞こえないか。
あらゆる人の行為も言葉も
あらゆる世間の動きも成り行きも
もはや意味や事柄としてではなく
遠い潮騒(しおざえ)のようなひぎきとして
お前につたわってくることを
お前は感じないか。
万物の育成する姿が
春の足音であり
万物の凋落する姿が
秋の足音であるように
あれがすべてを運行させている
大自然のひびきなのだ。
どんなものもこのひびきを
かき消すことはないけれど
ただお前自身の声だけが
お前の耳への
このひびきのつたわりを
かき消してしまう。
お前はお前の声をやめて
しずかにこのひびきに
耳を傾けよ。

(内山興正『求道-自己を生きる』p56-58)
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2005年11月25日 (金)

知らないこと

この秋にコーチングの認定資格を取得した。CPCC。
資格を取得してこれで上がり!…な訳はない。資格コース中にトレーニングした分,自分のコーチングを見る眼も肥えてきているから,主観的にはちっとも上達した気がしないけど,確実に熟達はして行っている。

コーチングのセッションをしていて気づく。
セッションが上手く噛み合ない…どうする?…これってスキルの問題じゃない。コーチングの疑問や悩みは,コーチングで解消する。
そう。クライアントをよく見ればいいんだ。分かった気にならないで,ゆっくりと丁寧に丁寧に傾聴していく。
クライアントにも自分にも丁寧であること。目の前に起こっていることに,ゆっくりと丁寧に向かい合うこと。
これは,大きな気づきだ。

あ…。これってどこかで読んだことがあるフレーズに似てるな…と思った。
『典座教訓』だ。

■「護惜之如眼晴保寧勇禪師曰。護惜眼晴常住物。」
之を護惜(ごしゃく)すること眼晴(がんせい)の如くせよ。保寧(ほねい)の勇(ゆう)禪師曰(いわ)く,「眼晴なる常住物を護惜せよ」と。
(食のコーナー:典座教訓全文【10】)
■「不可一念踈怠緩慢。一事管看。一事不管看。」
一念も踈怠緩慢(そたいかんまん)にして,一事をば管看(かんかん)し,一事をば管看せざるべからず。
(食のコーナー:典座教訓全文【18】)

「人間が眼の玉を大切にするように,大切にせよ。」
ここの一文,単なる喩えだと思って,さらっと読み飛ばしていたなぁ…。というか,人間が眼の玉を大切にするように,大切にするということがどういうことを言っているのか,全然分かってなかった。
だから,何事にも「一念踈怠緩慢(ちょっとの間でも,なまけたり,なげやりにしたりする)」で,「一事管看。一事不管看(一つの事は気をつけるが,一つの事は気をつけない)」をやってしまっている。丁寧に傾聴するって,ここのところだ…。

結局,自分が意識していないところで,自分は知っているつもりになっている。
「アタマで私は目の前のことについて知らない」と思っても,その底で,「これってこういうことだよね…」と勝手にストーリーやシナリオを創り続けている自分がいる。

「知っている」という前提に立っているからこそ,よく見ないしよく聴かない。
目の前のお野菜一つが,どんな縁で自分の目の前にこうしてあるのか,どう調理されたがっているか,実は私は知らないし,アタマで捕まえることもできない。
目の前のクライアントに何が起きているのか,どこへ行こうとしているのか,知らない。それをアタマで思考しても,解釈が出てくるだけで,クライアントの真実からは離れて行く。
「知らない」ということへの気づきが,お野菜に向かうときも,人に向かい合う時も,必然的に「不可一念踈怠緩慢。一事管看。一事不管看」へ私を方向付ける。

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2005年11月20日 (日)

身体で感知する

ここ2年ほど,ひょんなことから韓氏意拳という武術のお稽古に通っている。

武術などやったこともなかったのだけれど,すっかりはまってしまって今に至る。

いったい何が面白いのだろう?…多分,それは韓氏意拳がダイレクトにものごとの本質にアプローチをしていて,誤摩化しが一切きかないからだろう。それは禅にも通じている。

この韓氏意拳を稽古するようになってから,禅や唯識で言われていることが,以前より理解できるようになった。理解というより,身体感覚的に「これか…」と思うというフェーズなのだけど。

お稽古するなかで,自分のアタマでは制御しきれないところで,常にスイッチがONになっている身体に染み付いたクセに気づかされ,「これを習気と言っているのか…」と納得…。

また,「因果同時って?因と果って当然異時なんじゃないの?何故同時?」と思っていたけれど,そう…確かに因果同時なのだ。「種子生現行」と「現行薫種子」は同時なのだ…。

ということを,理屈・理論ではなく,身体で感知することは,とてもつなく大きく重い。

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2005年11月19日 (土)

新しい問い

pic_0110

先週末,久しぶりに安泰寺に行く。前堂頭の宮浦老師のお墓参り。

一周忌の時以来だから,2年半ぶりの安泰寺。

安泰寺に参禅していたのが,もう随分前のように感じられる。

2年半ぶりの久斗山の安泰寺は,私に「おまえの修行は何だ?」と問いかける。

私の修行…。私は,宮浦老師が亡くなられてからの3年9ヶ月をどんな風に過ごしてきただろうか…。

そんなことを思いながら,久斗山の山道を下る。

私の中で,「そういうことじゃないんだ」という宮浦老師の言葉が聞こえる。

参禅していた当時の私は,「そういうことじゃないってどういうこと?」と,いつも問いをいただいて下山していたけれど,今は違う。

「そういうことじゃないんですよね!」…そう応えたい私がいる。

「そういうことじゃないなら,おまえはどうする?」…また新しい問いが,私にやっていくる。

いや,新しい…というより,変わらず問い続けられていることに,また新たに気づいたということか。

あ。そうだ…。受戒の時いただいた絡子には,宮浦老師が「出会うところわが生命」と内山老師の言葉を書いてくださったのだった。

「一色の弁道」ということが,ようやくフィットしはじめた今日この頃。

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ブログ版参禅日記open!

参禅日記をブログに変更して,食・戒・唯識の「ひとりごと」のコーナーも同じブログに統合しました。
参禅日記は,2004年は2回,今年2005年も現在まで2回と,更新回数がめっきり減っていましたが,ブログ版openを期に,こまめに更新していきたいと思っています。
コメントも直接書き込めます。ご意見・ご感想など,皆さまとのシェアリング,お待ちしてます!

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