« 2006年1月 | トップページ | 2006年5月 »

2006年2月17日 (金)

どこへも行かない

先日14日は,仕事で福岡にいた。
14日は,前安泰寺堂頭・師匠の宮浦老師の命日。
ちょうど4年前のその日も私は所用で福岡にいた。

4年経ったのか…。
その年月が「もう」なのか「まだ」なのか,私にはわからない。
4年たったこの日に思いを馳せて思うのは,

「私は結局的にどこへも行っていない」。

亡くなられる2ヶ月前の臘八接心で頂いた最後の言葉−

「何も変わることなんかないんだよ。
私は、"この人(だけ)が悟ればいい"、
そんな小さなことでこの人を得度したんじゃないんだ。
そんなことで縁を与えたんじゃないんだ」

今も,この言葉とともにいる。

ただ,4年と2ヶ月前,驚きと喜びで抱きとめたこの言葉を,
今は,そっと,胸元で抱えている私がいる。

この4年間,私は,どこかへ歩みだそうと,随分足掻いたけれど,
結局,どこへも行ってはいなかった。
行ってはいなかったけれど,そこにこそ,
どこへでも行ける自分の世界が広がっている。

「何も変わることなんかないんだよ。
私は、"この人(だけ)が悟ればいい"、
そんな小さなことでこの人を得度したんじゃないんだ。
そんなことで縁を与えたんじゃないんだ」

…喜びの世界。

| | | コメント (0)

2006年2月 3日 (金)

釣り合いの取れた人生

釣り合いの取れた人生…。
先日,自分がクライアントとして受けるコーチングの導入セッションで話したこと。

自分のコーチングの原点は,自分のネガティブな体験にある。
人が人を救うことの難しさ…,決して満たされることのない根源的な孤独感…。それが客観的に正しいかどうかはわからないけれど,私にとって,そんな感覚が目の前のクライアントをコーチとしてサポートするエネルギーの源泉。

このネガティブな源泉をポジティブに変えたいとは思わない。満たされなさを満たそうともしない。
ただ,それと向き合うだけ。そして耳を澄ませる。

私のコーチは「使命には苦しみの体験があるものだ」と言った。

「passion(受難)」と「compassion(慈悲)」は表裏一体だ。
満たされない深さを観ずるところに果てしない慈しみが生まれる。

「懺悔」と「誓願」もまた同じ…。
下方向への深さの中に,上方向の果てしなさがある。
その両方の釣り合いの一点に体現される私…。

そういう生き方をネライ続けたい。

-------------------------------------------------------
誓願と懺悔

 『大乗起信論義記』に「衆生の真心還って自ら衆生を強化す。これ仏の誓願なり」とあるけれど,誓願というのはなにか特別にアタマで考えて向こうに描くことではない。衆生の真心,本来の自己,それがもう誓願なんだ。だから,生来の自分から,本当の自己を見れば,これは誓願として現れる。

 ところがこんどは反対に,本来の自己から,生来の自分を見ると,生来の自分というのは,本当はこうあるべきなんだと言いながら,実はそれが実現していない。業という手カセ,足カセにはめられているから,本来の自己そのものをなかなか実現できないでいる。

 その限りそこに懺悔という面が必ずある,なければならない。この誓願と懺悔というのは本来の自己と生来の自己とのカネ合いのところに当然でてこなければならない。それを一方的な話をしたら,どうせ間違っている。

(内山興正『求道-自己を生きる』p112)
-------------------------------------------------------

| | | コメント (0)

« 2006年1月 | トップページ | 2006年5月 »