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2006年5月26日 (金)

眼の玉を大切にするように…

Jukai 「眼の玉を大切にするように大切にする」って,要するにどういうこと?

このフレーズ,『典座教訓』の一節「護惜之如眼晴保寧勇禪師曰。護惜眼晴常住物(打得し了(お)わらば,之を護惜(ごしゃく)すること眼晴(がんせい)の如くせよ。保寧(ほねい)の勇(ゆう)禪師曰(いわ)く,「眼晴なる常住物を護惜せよ」」のことなのだけれど,長らく????だった。

岸沢惟安老師は,

「打得した米菜等を護惜すること,眼晴のごとくせよというと,眼晴のごとくせよがたとへになって,どうも大事にすることが,きつせつにひびかぬ。一色の弁道にはならぬから,勇禅師がそれを引つくりかえして,眼玉である常住物といわれた。一眼がお米一粒だ。眼の玉であるお米だ。一眼がお野菜ひとつ葉だ。眼の玉であるお味噌だ。眼の玉である沢庵だ。それだから一粒のお米もない。眼の玉だ。ひとつ葉のお野菜もない。眼の玉だ。お味噌ははない。眼の玉だ。沢庵はない。眼の玉だ。ただ眼の玉あるのみ,眼の玉のことを常住物というているのだから,もう大切にせよという必要なない。(中略)かくのごとく保寧の勇禪師が言われた。常住物が自分の眼の玉だ。その微細な注意が今時一色の弁道だ。」(『典座教訓講話』pp23-24

と説明されている。もちろん意味はわかるのだけれど,腑に落ちない。感覚的にかなり距離感があるというか,「自分の眼の玉≠目の前のモノ」という感覚かな。要するに体認がない。

こう言うと,いかにも,「護惜之如眼晴保寧勇禪師曰。護惜眼晴常住物」を,ずっと参究してきたように聞こえるけれど,実は,この一文は,ほとんど意識に止まっていなかった。ただ物を扱う時のたとえだと思って,ふーん…と通り過ぎていただけ。

ところが,最近,不意にこの文が頭に浮かび,「あ…これなんだ…これを言ってるんだ…」と体認する経験をした。それは,直接食事とは関係ない。自分の行き場をなくした思い,ともに居られない思いを,追ったり払ったりせず,そっとハグする(そんな"まなざし"を向ける)感じで,ただ今ここでする一つ一つの行為…一挙手一投足,一呼吸一呼吸をする。そんな行為の中で,ふと,「眼の玉を大切にするように…」ってこういうことなんだ…と初めて知った。

「護惜眼晴常住物(眼晴なる常住物を護惜せよ)」。

この立ち位置は,不思議なことに,不安や思い込みが増幅されない処らしい。どこかに掴まろうとしても掴まることろが,どこかに足を踏みしめようとしても踏みしめるところが,見つけられない処らしい。不思議とこの場所を離れようという気が起きない。

しばらくこの場所にステイしてもっと味わいたい…今,そんな処にいる。

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