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2006年7月27日 (木)

当たり前のこと −行持道環

最近,内山興正老師の本を読み返すことが多いのだけれど,読んでいて,ふと「行持道環」という言葉を思い出す。

「行持道環」。正法眼蔵・行持の最初に出てくる。

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仏祖の大道,かならず無上の行持あり。道環して断絶せず,発心修行,菩提涅槃,しばらくの間隙あらず,行持道環なり。
ゆゑに,みずからの強為にあらず,佗の強為にあらず,不曽染汚の行持なり。この行持の功徳,われを保任し,佗を保任す。
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下に岸沢惟安老師の『正法眼蔵全講』第十三巻より抜粋した解説があります。

あらためて,これを読んでみると,「道環して断絶せず」というあり方は,実はともて当たり前のことのように思えてくる。本来,人が生きて行くということは,生きて行くことそのものが行持であり,その中に発心修行,菩提涅槃もちゃんとそなわっている。だから,「みずからの強為にあらず,佗の強為にあらず,不曽染汚の行持なり」となる。

何年か前,この部分を読んだ時は,「行持道環」という理屈は分かるけれど,どうしたらそうなれるんだろう…というモードだったと思う。しかし,今,この一文と向き合うと,どうするとかこうするという話ではなく,本来の自分に気づいて行くことが,「行持道環」なんだという感じ…。

どこかで澤木興道老師が,「禅とは生活を創造することだ」というようなことを言っていたような気がするが,以前の自分はそう思ってはいても,実際は,禅や坐禅を特別なもの,というか,自分の生活や自分自身とは切り離したところで捉えていたのだと思う。

最近仕事でコーチングやマネジメントの話をクライアントとしている時,「日常が大事なんですよね」「普段の行為や行動が大事なんですよね」と,よく口にしていたりするのだけれど,結局,「当たり前」のことを「当たり前」にしているかどうかが一番大事なんだ,というところに,自分の立ち位置が変わってきているらしい。

アタマで考え描いた世界は,「当たり前」とはほど遠い。「当たり前」とは,「本来」ということだ。

「本来=当たり前」に気づいて行く…というよりは,気づいて行く=今・ここ・この身の上に体現していく,それが今の自分にとっての「行持道環」かな…。

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<岸沢惟安老師の『正法眼蔵全講』第十三巻より抜粋>
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仏祖の大道,かならず無上の行持あり。道環して断絶せず,発心修行,菩提涅槃,しばらくの間隙あらず,行持道環なり。

仏祖と大道と別のものではない。仏祖の身のこらずが大道だ。そこでこの大道の行なわれるところを行持というのだ。行持のほかに大道はないのだ。だから大道と仏祖と行持は一つだ。

無上菩提の大道が,道環−連続してたえないことを環という。この仏祖の大道が,連続してつぎからつぎに,つぎからつぎに起こって,しばらくもやむときがない。断絶しない。

発心,修行,菩提,涅槃と,この四つはただ一つだ。発心のなかにあとの三つがみなそなわっている。修行のなかにも,菩提のなかにそのとおりで,あとの三つがそなわっているのだ。涅槃というもそのなかに,発心も修行も菩提もある。だから四つが一つだ,一つが四つになっている。したがってそのあいだに間隙のありようがない。
その発心修行菩提涅槃のことを,それを行持という。

この四つはただ一つの事実で,一つの事実に四つの名があるのだ。一菩提心に四つの名をつけただけだ。だから「行持道環なり」。やめんとしてもやめることのできるものではない。菩提心みずから行持させてくれるのだ。
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2006年7月21日 (金)

人生の優先順位

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古本屋で見つけてね!
「あなたの人生の中で,最も優先させるべきことは何ですか?」

なーんて,マネジメントやコーチングのウェブのHOMEに「今日の一言」という見出しで載っていそうな問いである。最近の私は,この問いではなく,私の中で「人生の優先順位はひっくり返る」だろう…という予感の中にいる。

『典座教訓』の「更待何時(今でなくて,いつやろうというのか)」を味わっていると,「ひっくり返る」という漠然とした予感に楔が打ち込まれる。

人生の優先順位。

これは「人生の価値」の話にも繋がる。

『人生科読本』の「第六章 価値について」の中で内山興正老師は,こんなことを言っている。

「ところでいま価値ということが問題となってくるのは,ただ「1/一切 としての自分」においてのみであって,けっして「一切/一切 の自己そのもの」においてではありません。一切/一切 である本来の純粋生命においては,べったり生命なのであって,価値という分別が入ってくる余地はないからです。」(p153)

なんと,「価値という分別が入ってくる余地はない」!
さらに…

「たとえば,光のみであって,まったく陰影というものがないところには,何の影像も結ばないようなものです。しかしいま実際に生きるわれわれ人間生命においては,生来的に人間的心識(あたま)があたえられており,この心識(あたま)によって「1/一切 の自分」という個別自分を自覚しています。」(p154)

そして…

「価値分別は,このような「個別的自己において」こそ,はじめて現れてくるものです。そしてこの心識(あたま)をもった「1/一切 の自分」は通常,自分の「物足りようの思い」をもととして価値分別をし,「自分を物足りさすもの」をもって「価値あり」として,これの追究に生きています。これは生来的本能をもって食物を追いもとめる動物のつづきとして,当然のことかもしれません。」(p154)

しかし…

「この「物足りよう」の追究をもって,人生の営みのすべてだとすれば,それは結局たんなる「アタマの分泌物のために生きる」転倒,倒錯なのであって,結局それは「自らの亡びのために,営々として一生を生きる」姿でしかなくなってしまうでしょう。」(p154)

これこれ!これなんだよね,と頷く。でも,まだこの内山老師の言葉を体認するには至らない。

昨夜,韓氏意拳の站椿をしながら,ふと「真っ暗闇かこの上ない光か…という選択じゃない世界」という言葉が浮かぶ。今はまだ,自分の選択肢が「真っ暗」or「光」の二元的な域を出ていないけれど,この先何かが全く反転してしまうのだろうという捉えどころのない深部的感覚。これが今の私のリアルなところ。

と,ここまで書いて,あー反転してひっくり返るのは,自分の中の"何か"じゃなくて,きっと自分"そのものなんだ"…と気づく。そう気づくと,ひっくり返った先がどんな世界かは分からないけれど,ひっくり返るという流れを恐れず,抗わず,身を委ねることが,私の取るべき最善の道だと知る。

何が,私の人生の最優先事項かは,焦らずとも,ひっくり返った時に,自ずと分かり,言葉にもなるだろう…。

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2006年7月11日 (火)

更待何時(今でなくて,いつやろうというのか)

梅雨です。

梅雨の晴れ間…というか,外に洗濯物が干せる雨の切れ目をねらって洗濯する。他にやっていることは一先ず中断して,まず洗濯!再び雨が落ちてくると,部屋へ移動…という今日この頃。

天気の様子を見ながら「あ〜洗濯しなきゃ…今洗濯しないでいつやるの?」と自分に問って,ふっと思い出したのは『典座教訓』に出てくる用典座の話。

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 道元が天童山で修行していた時,68歳になる用(ゆう)という典座が,敷瓦が焼け付くほどの炎天下で笠も被らず海藻(きのこ)を干していた。道元は,用典座に「そんな歳で,何故典座の下役や雇い人にさせないのか」聞いたところ,「他人のしたことは,自分がしたことにはならない(他不是吾(他は是れ吾れにあらず))」という答えが返ってきた。更に,道元が「その通りであるが,なぜ陽射しも熱いのに,なぜこのようことをするのか」と尋ねると,用典座は「今(海藻(きのこ)を干すのに最適の時間)でなくて,いつやろうというのか(更待何時)」と言われた。
 道元は,用典座のこの言葉を聞いて,心の中で,典座職がいかに大事な仕事であるか覚ったのである。
(HIRO's HP>食のコーナー>「なぜ典座教訓か?」より。「典座教訓全文[73]〜[78]」も参照ください。)
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「他不是吾(他人のしたことは,自分がしたことにはならない)」
「更待何時(今でなくて,いつやろうというのか)」

この言葉を,改めて自分に投げてみると…。

本当に,私が今やるべきことは何?瞬間瞬間,私が選択する「正しい行為」は何?

という問いが,新たに出てくる。日常,特に仕事上で,自分の行動の優先順位をつけ,やるべきことを選択してはいるのだけれど,自分の中の深さに耳を傾けるとき,実は,結構その選択(と選択のプロセス)は,実は,大事なことを外している…ということにも気づく。

「私が今やるべきことは何?」…その答えは,アタマで考えなくても,瞬間瞬間の「今・ここ」にある。ただ,思い手放しで「今」をよく見て聴くことで,それは分かるはず。そして,そうアタマで思うだけでなく,私にはもうそれが出来るはずでしょ?

宮浦老師から最期に頂いた言葉を思い出す。

「何も変わることなんかないんだよ。
私は、"この人(だけ)が悟ればいい"、
そんな小さなことで得度したんじゃないんだ。
そんなことで縁を与えたんじゃないんだ」

私に与えられている"calling"は,私が考えるよりもずっと大きく,とても当たり前なことのような気がする。

その答えも,瞬間瞬間の「今・ここ」に,すでに現れている。

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2006年7月 9日 (日)

ピエタ的坐禅

あるビジョンが浮かんだ。

自分の中にあるともに居られない思いや行き場を無くした思い,これらをどうしよう,そんな自分をどうしよう,…そんな自分と向き合って,見つけた自分がすべきことは,ただ今の息をただ今するだけ,一つ一つの行為をそっとハグするように,ただするだけ…。と気づいて,ふと「ピエタ」という言葉が浮かんだ。

「ピエタ」は,死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵の事。初めてみたのは10代半ば,TVでやっていたルーブル美術館の「アヴィニョンのピエタ」。何かわからないけれど,そこに真実がある気がした。

今,ここにきて,「ピエタ」が浮かぶというのは,どういうことだろう。何か自分の中で,視点が大きく転換する何かが起こっているような気がする。きっとその転換が何かは,結果的に分かることで,今それを明らかにする必要もない気がする。

そんなことをつらつら考えると,私はとても無理をしてきたのだなぁ…,と改めて感じる。

「今ここ自分を坐禅上に磔にして万事休息
そこに眠らず霊として覚めるのが坐禅
坐禅はイエス十字架を今ここ行ずる姿勢」
(『いのち楽しむ-内山興正老師遺稿集』(p131-132)より)

とは,内山老師の言葉。
「坐禅=十字架」と思って,私もやって来たけれど,どうやら私は,「今ここ自分」を坐禅上に磔にするのではなく,自分の思う自分の一部分を磔にしようとしていて,私自身は磔を執行する権力側に立ったままだったのかもしれない…。

と気づいて,何だかすごく納得…。どーりでしんどいわけだ。何にも「今ここ自分」を委ねてないものね…。磔にする自分と磔になる自分がコンフリクトして息も絶え絶えな自分をそっとハグして解放する坐禅のイメージが,「ピエタ」と重なる。

多分「十字架的坐禅」=「ピエタ的坐禅」なのだけれど,「ピエタ的坐禅」というのが,今の自分にはふさわしい表現かもしれない。

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イエス型自己
四四 われの思いはアダム型肉の念い
この思い悔い改め手放す所 かえって
大自然的神の霊のいのち働く
十字架上の肢体死する所
かえって霊の体とし復活るイエスの如し
四五 十字架上の死しそこに復活するイエスも
過去の他人の話としてならず
今ここ自分を坐禅上に磔にして万事休息
そこに眠らず霊として覚めるのが坐禅
坐禅はイエス十字架を今ここ行ずる姿勢

『いのち楽しむ-内山興正老師遺稿集』
Ⅳ神の国に近づく歩み(p131-132)より
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2006年7月 1日 (土)

内山興正老師の本が出ました。

内山興正老師の本が復刻されました!

『宿なし興道法句参』は,「宿なし興道」と呼ばれた澤木興道老師の言葉を,弟子の内山老師が「法句」として拾い出し,その法句に,学人としての内山老師が「参ずる」という形で書かれています。

一読お薦め!!

以下,昭和56年初版の『宿なし興道法句参』(柏樹社)からの抜き書き。
他にも幾つかの法句参を,このブログの本編HIRO's HOME PAGEの内山興正老師語録のコーナーに抜き書きしています。

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業感で見る
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『宿なし興道法句参』(柏樹社)pp88-89

 法句=「月ひとつでも,うれしい月もあれば,悲しい月もあり,月見酒ということもある。どれも人間のみる月は業識相応(ごっしきそうおう)の月であって,どれもこれも本当ではない。」

 参=ここにいわれている業識相応の月とは,「自分の行為のひきつづきからの目のクセでみられた月」とでもいうべきでしょうか。
 たとえば今日では,仕事上の関係上,「いかにかの天体に人間の乗ったロケットを軟着陸させるか」という目のクセばかりで,月をみている科学者,技術者もあるでしょうし,「月の地質如何」という目のクセばかりで,月をみている地質学者もいることでしょう。おなじく,いま得意の絶頂にいる人のみる月はうれしく,失意の人のみる月は悲しく,左キキのみる月は酒のさかなにみえるわけです。
 日本語で「業の深い人間」とか「業つくばり」とかいいますが,これはこういう「目のクセ」が深刻にくいいっていることをいったものです。
 ところで仏教という宗教は,よく「業だから仕方がない」と諦(あきら)める教えだと思われていますが,けっしてそうではありません。そうでなく,こうした目のツッパリをよくもみほぐし,目のくせをバラに解体したところから見ようという宗教です。

 法句=「過去の善悪業(善悪の行為)が現在におしだされたのが業感(ごうかん−業識相応と同意)というものである。若いころから色気ばかりで生きてきたのが,後家ばばあにでもなると,後家ばばあになってからでも,やはり色気ばかりが気になって,若夫婦の間のヤキモチをやきおる。」

 法句=「凡夫は業にひかれ,この業感からこの世を見,おたがいに腐れ合うて,生々世々ひきつづく,これを流転輪廻(りんね)という。
 ところがこの『業感のメガネ』をはずしてみると,釈尊がいわれたように『大地と有情と同時に成道,山川草木ことごとくみな成仏』ならざるはない。」
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