内山興正老師の本が出ました。
『宿なし興道法句参』は,「宿なし興道」と呼ばれた澤木興道老師の言葉を,弟子の内山老師が「法句」として拾い出し,その法句に,学人としての内山老師が「参ずる」という形で書かれています。
一読お薦め!!
以下,昭和56年初版の『宿なし興道法句参』(柏樹社)からの抜き書き。
他にも幾つかの法句参を,このブログの本編HIRO's HOME PAGEの内山興正老師語録のコーナーに抜き書きしています。
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業感で見る
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『宿なし興道法句参』(柏樹社)pp88-89
法句=「月ひとつでも,うれしい月もあれば,悲しい月もあり,月見酒ということもある。どれも人間のみる月は業識相応(ごっしきそうおう)の月であって,どれもこれも本当ではない。」
参=ここにいわれている業識相応の月とは,「自分の行為のひきつづきからの目のクセでみられた月」とでもいうべきでしょうか。
たとえば今日では,仕事上の関係上,「いかにかの天体に人間の乗ったロケットを軟着陸させるか」という目のクセばかりで,月をみている科学者,技術者もあるでしょうし,「月の地質如何」という目のクセばかりで,月をみている地質学者もいることでしょう。おなじく,いま得意の絶頂にいる人のみる月はうれしく,失意の人のみる月は悲しく,左キキのみる月は酒のさかなにみえるわけです。
日本語で「業の深い人間」とか「業つくばり」とかいいますが,これはこういう「目のクセ」が深刻にくいいっていることをいったものです。
ところで仏教という宗教は,よく「業だから仕方がない」と諦(あきら)める教えだと思われていますが,けっしてそうではありません。そうでなく,こうした目のツッパリをよくもみほぐし,目のくせをバラに解体したところから見ようという宗教です。
法句=「過去の善悪業(善悪の行為)が現在におしだされたのが業感(ごうかん−業識相応と同意)というものである。若いころから色気ばかりで生きてきたのが,後家ばばあにでもなると,後家ばばあになってからでも,やはり色気ばかりが気になって,若夫婦の間のヤキモチをやきおる。」
法句=「凡夫は業にひかれ,この業感からこの世を見,おたがいに腐れ合うて,生々世々ひきつづく,これを流転輪廻(りんね)という。
ところがこの『業感のメガネ』をはずしてみると,釈尊がいわれたように『大地と有情と同時に成道,山川草木ことごとくみな成仏』ならざるはない。」
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