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2006年7月 9日 (日)

ピエタ的坐禅

あるビジョンが浮かんだ。

自分の中にあるともに居られない思いや行き場を無くした思い,これらをどうしよう,そんな自分をどうしよう,…そんな自分と向き合って,見つけた自分がすべきことは,ただ今の息をただ今するだけ,一つ一つの行為をそっとハグするように,ただするだけ…。と気づいて,ふと「ピエタ」という言葉が浮かんだ。

「ピエタ」は,死んで十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵の事。初めてみたのは10代半ば,TVでやっていたルーブル美術館の「アヴィニョンのピエタ」。何かわからないけれど,そこに真実がある気がした。

今,ここにきて,「ピエタ」が浮かぶというのは,どういうことだろう。何か自分の中で,視点が大きく転換する何かが起こっているような気がする。きっとその転換が何かは,結果的に分かることで,今それを明らかにする必要もない気がする。

そんなことをつらつら考えると,私はとても無理をしてきたのだなぁ…,と改めて感じる。

「今ここ自分を坐禅上に磔にして万事休息
そこに眠らず霊として覚めるのが坐禅
坐禅はイエス十字架を今ここ行ずる姿勢」
(『いのち楽しむ-内山興正老師遺稿集』(p131-132)より)

とは,内山老師の言葉。
「坐禅=十字架」と思って,私もやって来たけれど,どうやら私は,「今ここ自分」を坐禅上に磔にするのではなく,自分の思う自分の一部分を磔にしようとしていて,私自身は磔を執行する権力側に立ったままだったのかもしれない…。

と気づいて,何だかすごく納得…。どーりでしんどいわけだ。何にも「今ここ自分」を委ねてないものね…。磔にする自分と磔になる自分がコンフリクトして息も絶え絶えな自分をそっとハグして解放する坐禅のイメージが,「ピエタ」と重なる。

多分「十字架的坐禅」=「ピエタ的坐禅」なのだけれど,「ピエタ的坐禅」というのが,今の自分にはふさわしい表現かもしれない。

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イエス型自己
四四 われの思いはアダム型肉の念い
この思い悔い改め手放す所 かえって
大自然的神の霊のいのち働く
十字架上の肢体死する所
かえって霊の体とし復活るイエスの如し
四五 十字架上の死しそこに復活するイエスも
過去の他人の話としてならず
今ここ自分を坐禅上に磔にして万事休息
そこに眠らず霊として覚めるのが坐禅
坐禅はイエス十字架を今ここ行ずる姿勢

『いのち楽しむ-内山興正老師遺稿集』
Ⅳ神の国に近づく歩み(p131-132)より
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