« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月31日 (水)

〈しかし,わたしたちはキリストの心を心としている〉







「しかし,わたしたちはキリストの心を心としている」

(コリント2・16)


「だれが主の心を知り,主に教えることができようか」。


| | | コメント (0)

2007年10月30日 (火)

〈味わう〉







「味わう」

正法眼蔵 現成公案


萬法に證せらるる。



| | | コメント (0)

味わう。

坐禅は認知以前,無色の−方向性の感覚を味わう。
方向性のない感覚を味わうからこそ,ねらいどころをねらった坐り="自分が自分を自分する"坐りになるのだろう。

| | | コメント (0)

2007年10月29日 (月)

〈迷悟〉







「迷悟」

正法眼蔵 現成公案


自己をはこびて萬法を修證するを迷とす。
萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。



| | | コメント (0)

2007年10月28日 (日)

〈原夫道本圓通爭假修證〉

「原夫道本圓通爭假修證」
内山興正『普勧坐禅儀を読む―宗教としての道元禅』


原点(もともと)にかえっていうならば,仏道の本来は(仏道はただ自己の生命の実物をすることなのだから),いまさら何かを足しまえをつけくわえなければならぬということではなく,またそのままではゆきづまりを来すというものもない。あらためてどうせねばならぬということは一つもないのである。



| | | コメント (0)

2007年10月27日 (土)

〈Peace Is Every Step〉

「Peace Is Every Step」
(Thich Nhat Hanh著 『The Long Road Turns to Joy』p74)


Peace is every Step.
The shining red sun is my heart.
Each flower smiles with me.
How green,how fresh all that grows.
How cool the wind blows.
Peace is every step.
It turns the endless path to joy.

| | | コメント (0)

2007年10月26日 (金)

〈生まれる以前に〉







「生まれる以前に」

内山興正『生存と生命―人生科講義』,p47


どいつもこいつも,勿論私自身も含めて,みんな生まれる以前に堕されていても文句ない奴ばっかりです。
その地盤が大切だ。




| | | コメント (0)

その言葉を抱えてみる。

今月号の『大法輪』(2007年11月号)を開いてみたら,櫛谷宗則さんが内山興正老師の「生まれる以前に堕された」という言葉について書かれていた。

「生まれる以前に堕された」。

"ドキッ"とする言葉だ。

"ドキッ"としつつ,この言葉を抱えてみる。すると"ドキッ"とは違う感覚が自分の内側にあるのに気づく。ある種の諦めというのか,何と言うのかわからないけれど,これは落着きにも近い感覚だ。
この地盤まで立ち返って,坐禅しないとね。



| | | コメント (0)

2007年10月25日 (木)

〈毒矢のたとえ〉







「毒矢のたとえ」

『世界の名著1 バラモン教典/原始仏典1』pp475-476


 マールンキャープッタ,たとえばある人が厚く毒を塗られた矢で射貫かれたとしよう。彼の友人同僚や血縁の者らが内科医や外科医に手当てさせようとしたとしよう。彼がもし,わたしを射た人は王族であるか婆羅門であるか農商工業者であるか奴婢であるかが知られないあいだは,わたしはこの矢を抜くことはしない,というとしたら,また彼がもし,わたしを射た人の名はこれこれであり,姓はこれこれであると知らないあいだは…,わたしを射た人は長身か短身か中くらいかが知られないあいだは…,わたしを射た人は黒いか褐色か金色の肌をしてるかが知られないあいだは…,わたしを射た人はこの村にあるいはこの待ちにあるいはこの市に居住しているかが知られないあいだは…,わたしを射た弓は普通の弓であるか弩(いしゆみ)であるかが知られないあいだは…,弦はアッカ草でつくったものかサンタ草でつくったものか動物の筋肉の繊維でつくったものかマルヴァー麻でつくったものかキーラパンニンでつくったものかが知られないあいだは…,矢幹(やがら)はカッチャ蘆であるかローピマ蘆であるかが知られないあいだは…,矢幹につけられた羽は鷲の羽であるか青鷺の羽であるか鷹の羽であるか孔雀の羽であるかシティハヌの羽であるかが知られないあいだは…,矢幹に巻いてある動物の筋肉の繊維は牛であるか水牛であるか鹿のであるか猿のであるかがしられないあいだは…,矢は普通の矢であるかクラッパであるかヴェーカンダであるかナーラーチャであるかヴァッチャダンタであるかカラビーラパッタであるかが知られないあいだは,わたしはこの矢を抜くことはしない,というとしたら,マールンキャープッタ,その人がそれを知らないうちに,その人は死期を迎えることになるであろう。



| | | コメント (0)

信じるものではなくおこなうべきもの

「毒矢のたとえ」を引用して,『ダルマの実践―現代人のための目覚めと自由への指針』で著者のスティーブン・バチェラー氏は,「ブッダが最初に教えたのは,方法(「ダルマの実践」)なのであってもう一つのイズム(主義,信仰)ではなかった。ダルマとは信じるものではなくおこなうべきものなのである」(第2章不可知主義:p49)と言っている。

また,「不可知主義的仏教者が,ダルマに期待するのは実存的な「慰安(コンソレーション)」のメタファー(隠喩)ではなく実存的な「直面(コンフロンテーション)」のメタファーなのだ。ダルマとはそれを信じることによってわれわれが奇跡的に救済される信条ではない。それは探究され,試みられるべき方法なのである」(pp50-51)とも言っている。

スティーブン・バチェラー著,藤田一照訳『ダルマの実践―現代人のための目覚めと自由への指針』,一読お薦めです。



| | | コメント (0)

2007年10月24日 (水)

〈ながむる人の心にぞすむ〉







「ながむる人の心にぞすむ」

(法然上人)


月影の いたらぬ里は なけれども

     ながむる人の 心にぞすむ


| | | コメント (0)

一坐。

「月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」

これを身をもっていきいきやるのが坐禅だな…。

| | | コメント (0)

2007年10月23日 (火)

〈生命実物を生きる〉







「生命実物を生きる」

内山興正


思いは幻影 行為は現実 結果は化けて出る。




| | | コメント (0)

2007年10月22日 (月)

〈安楽の法門〉







「安楽の法門」

普勧坐禅儀


所謂坐禅は習禅には非ず。
唯是れ安楽の法門なり,
菩提を究尽するの修証なり。


| | | コメント (0)

坐る。

今夏7キロ余り減量する。
改めて,減量して良かったことは結跏趺坐で坐れること。
だったりして…。

| | | コメント (0)

2007年10月21日 (日)

〈開経偈〉







開経偈


無上甚深微妙法。
   (無上甚深微妙の法は,)
百千万劫難遭遇。
   (百千万劫にも遭い遇うこと難し。)
我今見聞得受持。
   (我れ今見聞し受持することを得たり。)
願解如来真実義。
   (願わくは如来真実の義を解せん。)


| | | コメント (0)

2007年10月20日 (土)

〈私たちはそなえています〉







「私たちはそなえています」

ティク・ナット・ハン『仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす』


 青い空の美しさを楽しむために,特別の努力をする必要があるでしょうか。楽しむ練習をする必要があるでしょうか。いいえ。ただそれを楽しむだけです。
 人生の一秒一秒,一分一分について,このことが言えます。いつ,どこにいても,太陽の光,お互いにいっしょにいること,呼吸をすることの生命感を楽しむ能力を,私たちはそなえています。




| | | コメント (0)

2007年10月19日 (金)

〈あの人骨を見たとき,〉







「あの人骨を見たとき,」

藤原新也『メメント・モリ』


あの人骨を見たとき,

病院では死にたくないと思った。

なぜなら,

死は病ではないのですから。




| | | コメント (0)

やっと手に入れました。

やっと『メメント・モリ』を手に入れました。
藤原新也氏のサイトで『メメント・モリ(memento mori)』に掲載されている写真を見ることができます。

| | | コメント (0)

2007年10月18日 (木)

〈種をまく人はみことばをまくのである〉







「種をまく人はみことばをまくのである」

(マルコ4・14-20)


種をまく人はみことばをまくのである。みことばがまかれた道ばたのものとは,こういう人たちのことである。すなわち,みことばを聞くと,すぐにサタンが来て,彼らのうちにまかれたみことばを取り去ってしまう。岩地にまかれたものとは,みことばを聞くと,すぐに喜んで受けるが,彼らには根がなく,一時的なもので,後になってみことばのために患難や迫害が起こると,すぐにつまずいてしまう人たちのことである。また,いばらの中にまかれたものとは,みことばを聞くが,この世の思い煩いや富の誘惑,またその他のいろいろな欲望が,彼らのうちに入って来て,みことばを覆いふさぎ,実をむすばない人たちのことである。また,良い土地にまかれたものとは,みことばを聞いて受け入れ,ある者は三十倍,ある者は六十倍,また,ある者は百倍の実を結ぶ人たちのことである。


| | | コメント (0)

今日の祈りの言葉。

今日の祈りの言葉は,キリスト教系の幼稚園に通う4歳の甥っ子が教えてくれたものだ。
今月のみことばとして幼稚園で唱えている言葉を,掌を合わせながら暗唱してくれた。
「種をまく人はみことばをまくのである。マルコ4章14節。」

| | | コメント (0)

2007年10月17日 (水)

〈人間の智恵が教える言葉によらず〉







「人間の智恵が教える言葉によらず」

(コリント2・11-13)


聖霊はすべてを,神の心の奥底さえも究めるのです。人間のことは,人間の内にある彼の霊のほかに,どんな人間が知っているでしょうか。同じように,神のことも,神の霊のほかにだれも知りません。わたしたちが受けたのは,この世の霊ではなく,神からの「霊」です。それは,神から恵みとしていただいたものをわたしたちが知るためです。この恵みについて語るのに,わたしたちは人間の智恵が教える言葉によらず,神の霊が教える言葉によって語り,神の霊に導かれて生きている人々に霊的なことを解き明かしています。


| | | コメント (0)

2007年10月16日 (火)

〈無有生死〉







「無有生死」

内山興正著『大空が語りかける−興正法句詩抄』p31)


天地一杯 拝んでる

天地一杯 拝んでる

天地一杯 拝んでる




| | | コメント (0)

2007年10月15日 (月)

〈そのもの〉







「そのもの」

(道元禅師著『正法眼蔵』「仏性」)


佛性かならず悉有なり。悉有は佛性なるがゆへに。悉有は百雜碎にあらず,悉有は一條鐵にあらず。拈拳頭なるがゆへに,大小にあらず。すでに佛性といふ,諸聖と齊肩なるべからず,佛性と齊肩すべからず。











| | | コメント (0)

2007年10月14日 (日)

〈私はあなたのためにここにいます〉







「私はあなたのためにここにいます」

(Thich Nhat Hanh著『生けるブッダ、生けるキリスト』p23)


私たちが人にしてあげられる最も貴重な贈りものは,その人のそばにいてあげることです。













| | | コメント (0)

2007年10月13日 (土)

〈深い淵からの叫び〉







「深い淵からの叫び」

(旧約聖書 詩編130)


ヤーウェよ,わたしは深い淵から あなたに叫ぶ。
主よ,わたしの願いの声を聞きいれ,
せつなる願いの声に耳を傾けられよ。
ヤーウェよ,もしあなたが悪(不義)に目をとめられるなら,
主よ,だれが立っていられよう。
しかし,みもとには ゆるしがある。
それで人々は あなたを敬う。
ヤーウェは,わが望み,
わが魂の望み。
わたしは そのことばを待ち望む。
夜回りが あかつきを,
夜回りが あかつきを待ち望むにもまして,
わが魂は主を待ち望む。
イスラエルよ,ヤーウェを待ち望め。
ヤーウェのもとに いつくしみがあり,
豊かな あがないがある。
ヤーウェみずから イスラエルを あらゆる悪(不義)からあがなわれる。


| | | コメント (0)

2007年10月12日 (金)

〈波のなかの水に触れる〉







「波のなかの水に触れる」

(Thich Nhat Hanh著『生けるブッダ、生けるキリスト』pp160-161)


波ばかり見ていたら,水を見のがしてしまいます。しかし,気づきが働いていれば,波のなかにある水にも触れることができるのです。水に触れることができたら,寄せては引いてゆく波のはかなさなど気にかからなくなるのです。もうはかない波の生死に翻弄されることもなく,恐れはなくなってしまいます。波のはじまりにもおわりにも,高い波にも低い波にも,そして美しい波にも醜い波にも,いちいち心を動かすことはないのです。あなたは水といういのちの本質に触れたので,これらの観念を手放すことができるようになったのです。













| | | コメント (0)

2007年10月11日 (木)

〈四つのすぐれた真理〉







「四つのすぐれた真理」

中村元 訳『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』pp43-44


 修行僧たちよ。四つのすぐれた真理をさとらず,通達しないが故に,この長い時間にわたって,わたしもお前たちも,このように流転し,輪廻したのである。その四つとはどれどれであるのか?

 修行僧たちよ。<苦しみ>という尊い真理をさとらず,通達しないが故に,この長い時間にわたって,わたしもお前たちも,このように流転し,輪廻したのである。

 修行僧たちよ。<苦しみの起こるもと>という尊い真理をさとらず,通達しないが故に,この長い時間にわたって,わたしもお前たちも,このように流転し,輪廻したのである。

 修行僧たちよ。<苦しみの止滅>という尊い真理をさとらず,通達しないが故に,この長い時間にわたって,わたしもお前たちも,このように流転し,輪廻したのである。

 修行僧たちよ。<苦しみの止滅にみちびく道>という尊い真理をさとらず,通達しないが故に,この長い時間にわたって,わたしもお前たちも,このように流転し,輪廻したのである。

 しかし,修行僧たちよ。<苦しみ>というすぐれた真理がさとられ,通達された。<苦しみのおこるもと>という尊い真理がさとられ,通達された。<苦しみの止滅>という尊い真理がさとられ,通達された。<苦しみの止滅にみちびく道>という尊い真理がさとられ,通達された。生存に対する妄執はすでに断たれた。生存にみちびく(妄執)はすでに滅びてしまった。もはや再び迷いの生存を受けるということはない。




| | | コメント (0)

2007年10月10日 (水)

〈Walking Peace〉







「Walking Peace」 

(Thich Nhat Hanh著 『The Long Road Turns to Joy』p73)


Peace is the walk.
Happiness is the walk.
Walk for yourself
and you walk for everyone.





| | | コメント (0)

2007年10月 9日 (火)

〈We Need Time〉







「We Need Time」 

(Thich Nhat Hanh著 『The Long Road Turns to Joy』p51)


You can practice walking meditation between meetings, on the way to your car, up or down the stairs. When you walk anywhere, allow enough time to practice. Instead of three minutes, give yourself eight or ten. I always leave for the airport an extra hour early, so I can practice walking meditation there. Friend want to keep me until the last minute, but I resist. I tell them that I need the time.





| | | コメント (0)

2007年10月 8日 (月)

〈仏道をならふとは 自己をならふなり〉







「序 詞」

〈仏道をならふとは 自己をならふなり〉
『正法眼蔵 現状公案』
内山興正著『生存と生命〜人生科講義』)


あなたが呼べば 私はこたえる
それは 私が 私にこたえるのである

世界についての情報を 私はきく
それは 私についての情報を
  私がきくのである

あなたが困っていることに
  私が手を貸す

それは 私が困っていることに
  私が手を貸すのである

私が 師にしたがって学ぶ
それは 私が
  私にしたがって学ぶのである

そんな 何ものをとりあげても
  自己でないものはない
  生きた自己ギリの自己を
  ならうこと
それは 自受用三昧 仏道を
  ならうことである




| | | コメント (0)

2007年10月 7日 (日)

〈利行は一法なり〉







「利行は一法なり」

(修証義・第四章 発願利生)


利行というは貴賤の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり,窮亀を見病雀を見しとき,彼が報謝を求めず,唯単に利行に催さるるなり,愚人謂わくは利佗を先とせば自からが利省かれぬべしと,爾には非ざるなり,利行は一法なり,普ねく自佗を利するなり。


| | | コメント (0)

2007年10月 6日 (土)

〈最も重要なおきて〉







「最も重要なおきて」

(マルコ12・28−34,マタイ22・34−40,ルカ10・25−28)


イエズスはお答えになった。
「第一のおきてはこれである。『イスラエルよ,聞け。われらの神である主は,唯一の主である。心を尽くし,精神を尽くし,思いを尽くし,力を尽くして,あなたの神である主を愛せよ』。第二のおきては,『隣人をあなた自身のように愛せよ』これである。この二つのおきてよりも大事なおきてはない」。


| | | コメント (0)

2007年10月 5日 (金)

〈ブッダ最後のことば〉







「ブッダ最後のことば」

中村元 訳『ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経』p158


 そこで尊師は修行僧たちに告げた。−
 「さあ,修行僧たちよ。お前たちに告げよう,『もろもろの事象は過ぎ去るのである。怠ることなく修行を完成させなさい』と。」
 これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。




| | | コメント (0)

2007年10月 4日 (木)

〈今日ここに生きているわたしたち一人ひとりと結ばれた〉







「今日ここに生きているわたしたち一人ひとりと結ばれた」

(申命記5・1−4)


さて,モーセは全イスラエルを呼び集めて彼らに言った。「聞け,イスラエル。今日,わたしがあなたたちに語り聞かせる掟と定めを。これらを学び,忠実に行ないなさい。わたしたちの神,ヤーウェは,ホレブでわたしたちと契約を結ばれた。ヤーウェはこの契約をわたしたちの先祖と結ばれたのではなく,今日ここに生きているわたしたち一人ひとりと結ばれた。ヤーウェは,山で火の中からあなたたちと顔を合わせて,語られた。


| | | コメント (0)

2007年10月 3日 (水)

〈生死〉







「生死」

内山興正著『〈生死〉を生きる−私の生死法句詩抄より』pp40-41)


手桶に水を汲むことによって
 水が生じたのではない
天地一杯の水が
 手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を
 大地に撒いてしまったからといって
 水が無くなったのではない
天地一杯の水が
 天地一杯のなかにばら撒かれたのだ

人は生まれることによって
 生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
 私という思い固められたなかに
 汲みとられたのである
人は死ぬことによって
 生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が
 私という思い固めから
 天地一杯のなかにばら撒かれるのだ




| | | コメント (0)

2007年10月 2日 (火)

〈拝む〉







「拝 む」

内山興正著『〈生死〉を生きる−私の生死法句詩抄より』p78)


拝むとは二つが一つ

その一つさえもかくれてしまう

思いが手放された実物のかたち

天地一杯 実物の深さ 




| | | コメント (0)

2007年10月 1日 (月)

〈人の目が見たこともなく〉







「人の目が見たこともなく」

(コリント2・9)


人の目が見たこともなく,
耳が聞いたこともなく,
人の心に思い浮かんだこともなかったこと,
これこそ,神がご自分を愛する者たちのために
用意してくださったもの。


| | | コメント (0)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »