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2007年11月30日 (金)

〈あなたは祈るとき〉







「あなたは祈るとき」

(マタイ6・5−8)



 また,あなたがたは祈るとき,偽善者がするようにしてはならない。偽善者は人に見せようとして,会堂や町かどに立って祈るのを好む。あなたがたによく言っておく。彼らはすでにその報いを受けている。あなたは祈るとき,奥のへやに入って戸をしめ,隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば,隠れた行ないをごらんになるあなたの父は,報いてくださるであろう。

 あなたがたは祈るとき,異邦人のようにくどくどと言ってはならない。彼らは言葉数さえ多ければ,聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は,あなたがたが願うまえに,その必要とするものを知っておられるからである。



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2007年11月29日 (木)

〈見ないで信じる人たち〉







「見ないで信じる人たち」

(ヨハネ20:29))



あなたは,わたしを見たから信じたのか。
見ないで信じる人たちは幸いである。



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2007年11月28日 (水)

〈心の主となれ,心を主とする勿れ〉







「心の主となれ,心を主とする勿れ」

(澤木興道『生活即禅』(p17))



迷といふものは,つまり自分に欺されたものの姿である。自分に欺されねばいい。禅では之を『心の主となれ,心を主とする勿れ』といふ。






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2007年11月27日 (火)

〈眼や耳に欺かれづ〉







「眼や耳に欺かれづ」

(澤木興道『生活即禅』(p15))



自分の持った眼や耳に欺かれづに眼や耳の働きを思ひきり発揮すれば,剣術をやっても滅多に負ける気遣いはないのです。






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2007年11月26日 (月)

〈是れ一か是れ二か〉







「是れ一か是れ二か」

(無門関・第三十五 倩女離魂)



 五祖,僧に問うて云く,「倩女離魂,那箇か是真底」
 無門曰く,「若し者裏に向つて真底を悟り得ば,便ち知らん殻を出でて殻に入ること旅舎に宿するが如くなることを。
其れ或は未だ然らずんば,切に乱走すること莫れ。驀然として地水火風一散せば,湯に落つる(虫+旁)蠏の七手八脚なるが如くならん。那時言うこと莫れ,道はじと」
  頌に曰く,
 雲月是同じ,渓山各異なり。万福万福,是れ一か是れ二か。





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2007年11月25日 (日)

〈有時。〉







「有時。」

正法眼蔵・有時



古佛言,
有時 高高峰頂立。
有時 深深海底行。
有時 三頭八臂。
有時 丈六八尺。
有時 拄杖拂子。
有時 露柱燈籠。
有時 張三李四,
有時 大地虚空。





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2007年11月24日 (土)

〈くたびれている〉







「くたびれている」

櫛谷宗則編『澤木興道老師のことば』(p62)



人間,
何でくたびれるかと言えば,
少しでも
うまいことしよう
という動揺で
くたびれている。



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2007年11月23日 (金)

〈人間ほんらい〉







「人間ほんらい」

櫛谷宗則編『澤木興道老師のことば』(p50)



人間ほんらい東西南北
どっちゃの方向へ向かって
闊歩してもいいのである。




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2007年11月22日 (木)

〈死ぬまでならんわい〉







「死ぬまでなおらんわい」

櫛谷宗則編『澤木興道老師のことば』(p34)



よう
「禅は無心になることでしょ」
などと言いおる。
−無心なんて,
死ぬまでならんわい。



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2007年11月21日 (水)

〈七回どころか〉







「七回どころか」

(マタイ18・22)



七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。



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2007年11月20日 (火)

〈行あって願なきものは〉







「行あって願なきものは」

澤木興道『禅談』



仏教には『願』と云うものが,どうしてもなければならぬ。大般若経の魔事品の中に『行あって願なきものは菩薩の魔事なり』ということがある。修行しても,『願』が無かったならば,ハンドルのないオートバイ見たいなものでフニャフニャである。




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2007年11月19日 (月)

〈祈りとは〉







「祈りとは」

内山興正著『生存と生命―人生科講義』p142



祈りとは神の前に静まることである。

エミール・ブルンナーの言葉




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2007年11月18日 (日)

〈身体を整える〉







「身体を整える」

『普勧坐禅儀』



鼻息微かに痛じ,
身相既に調えて,
欠気一息し,
左右揺振して,
兀兀として坐定して,
箇の不思量底を思量せよ。



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身体を整える

「鼻息微かに痛じ,身相既に調えて,欠気一息し,左右揺振して,兀兀として坐定して,箇の不思量底を思量せよ。」

『普勧坐禅儀』に出てくる坐禅の際の身体の整え方。

最近,坐る時に「左右揺振して(左右に身体をゆすって)」ということがなんとなく気になっていた。
これまで,漠然と,お決まりのように左右揺振していたのだけれど,なんかこれって違うんじゃない?という感じがして。
たとえてみると,左右に揺する時,仙骨を固定してメトロノームみたいに揺する感じ…なーんかそうじゃないよね。

と思いはじめたのも,「整体」(韓氏意拳用語です)ということを最近よく考えているからかもしれない。
「こんな風に左右揺振して整体された状態になる?」と自分に問ってみて,やっぱりヘンだと思い,メトロノーム的な左右揺振をやめにする。

というわけで,ここ数日はちょっと違う感じで左右揺振してみる。
ん…これってどんな感じの左右揺振だろう…?たとえるなら,ソフトクリームかな。
ソフトクリームを絞り出しながら,カップにくるくると円を描きながら何層も重ねて行く感じ。最後にピンとクリームの角が立つようにする。(なーんて,ソフトクリームなんてほとんど作ったことはないので,ほとんど単なるイメージです…(^^;)ゞ)。

明らかに,メトロノーム的左右揺振よりはソフトクリーム的左右揺振の方が,「兀兀として坐定する(坐を安定せしめてから,不動の姿勢となる)」という状態には近い感じがする。

たぶん「兀兀坐定」は「整体」された状態なんだろうな…。

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2007年11月17日 (土)

〈文化〉







「文化」

スティーブン・バチェラー著,藤田一照訳『ダルマの実践―現代人のための目覚めと自由への指針』p236



ブッダによって鼓舞された者(菩薩)が
修学しないことなど一つもない。
こういう生き方に熟達したとき
値打ちのないものなど一つもなくなる。

−シャーンティデーヴァー−







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2007年11月16日 (金)

〈悲(あわれみ)のこころ〉







「悲(あわれみ)のこころ」

スティーブン・バチェラー著,藤田一照訳『ダルマの実践―現代人のための目覚めと自由への指針』p184



たとえ他人のためになにかをしても
そのことについてのうぬぼれや自分がすばらしいことをしているという気持ちはまったく起こらない。
それは自分に食物をあたえているようなものだ。
だから見返りになにも望んだりはしない。

−シャーンティデーヴァー−







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2007年11月15日 (木)

〈ぶっつづき〉







「ぶっつづき」

内山興正


出合うところ わが生命。




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2007年11月14日 (水)

〈一=一じゃない〉







「一=一じゃない」

(『無門関』第三)



童子負痛號哭して去る。胝,復た之を召す。童子,首を廻らす。胝,却って指を竪起す。童子忽然として領悟す。





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2007年11月13日 (火)

〈一じゃない〉







「一じゃない」

(『無門関』第三)



後に童子あり,因みに外人問う,「和尚何の法要をかく」。童子も亦た指頭を竪つ。胝,聞いて遂に刃を以って其の指を断つ。





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2007年11月12日 (月)

〈一〉







「一」

(『無門関』第三)



具胝和尚,凡そ詰問あれば唯だ一指を挙す。





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2007年11月11日 (日)

〈抗わない〉







「抗わない」

内山興正『普勧坐禅儀を読む―宗教としての道元禅』



放捨諸縁(諸縁を放捨し)
休息萬事(あらゆるかかわりをなげだし)
不思善惡(善悪を思わず)
莫管是非(是非も問題にしない)



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抗わない

20071109170213
先日,師匠のお墓参りに一年ぶりに安泰寺に行く。
帰りの山道を降りながら,ふと「放捨」という言葉が浮かんだ。

「放捨」は道元禅師の『普勧坐禅儀』に出てくる「放捨諸縁 休息萬事 不思善惡 莫管是非(諸縁を放捨し,萬事を休息して,善悪を思わず,是非を管すること莫れ)」。

こう読むと「自分の外にあるいろいろなものからの影響を投げうって…」ということになるのだけれど,そう思って(そう考えて)坐禅にしても,日常の自分の一挙手一投足にしても行なおうとすると,なんかヘンな感じ。このヘンさは,たぶん,自分と外界が分かれてしまっていて,ナマな生きてる実体にあわないんだと思う。自分という生きてる主体の話じゃなくなる。

「放捨諸縁 休息萬事 不思善惡 莫管是非」とは,「自分のすべきことをすべき時に,今今,瞬間瞬間する」ということなんだ…,あっ,これが「抗わない」ってことか…。

「身をゆだねる」ということも,また然り。

(★内山興正著『普勧坐禅儀意解〜普く勧める坐禅のしかた』(復刻版『普勧坐禅儀を読む—宗教としての道元禅』)
の意訳抜書きや対意訳,坐禅については澤木,内山,岸沢老師の"坐と行"のコーナーへどうぞう。)

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2007年11月10日 (土)

〈自己にうち克つことは〉







「自己にうち克つことは」

中村元 訳「感興のことば」『ブッダの真理のことば・感興のことば』 (岩波文庫)pp229-230


 自己にうち克つことは,他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行いをつつしみ,自己をととのえている人,−このように明きからな知慧のある修行僧の克ち得た勝利を敗北に転ずることは,神々も,なし得ない。ガンダルヴァ(天の音楽神)たちも,悪魔も,梵天もなし得ない。

 先ず自分の身を正しくせよ。次いで他人に教えよ。

 先ず自己を正しくととのえ,次いで他人に教えよ。賢明な人は煩わされ悩むことが無いであろうから。

 自分が他人に教えるとおりに自分でも行なえ。わたしは常にわが身をよくととのえている。自分というものは,まことに制し難いものである。




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2007年11月 9日 (金)

〈目ざめている者〉







「目ざめている者」

中村元 訳「感興のことば」『ブッダの真理のことば・感興のことば』 (岩波文庫)p205


 目ざめている者どもは,わがことばを聞け。眠っている者どもは,めざめよ。眠っている者どもよりは目ざめている者がすぐれている。目ざめている者には恐れが無いからである。




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2007年11月 8日 (木)

〈主は,あなたを守る方〉

「主は,あなたを守る方」
(詩篇121)

私は山に向かって目を上げる。私の助けは,どこから来るのだろうか。
私の助けは,天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず,あなたを守る方は,まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は,まどろむこともなく,眠ることもない。
主は,あなたを守る方。主は,あなたの右手をおおう陰。
昼も,日が,あなたを打つことがなく,夜も,月が,あなたを打つこともない。
主は,すべてのわざわいから,あなたを守り,あなたのいのちを守られる。
主は,あなたを,行くにも帰るにも,今よりとこしえまでも守られる。

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2007年11月 7日 (水)

〈うるわしく,あでやかに咲く花〉







「うるわしく,あでやかに咲く花」

中村元 訳「感興のことば」『ブッダの真理のことば・感興のことば』 (岩波文庫)p214


 うるわしく,あでやかに咲く花でも,香りの無いものがあるように,善く説かれたことばでも,それを実行しない人には実のみがない。

 うるわしく,あでやかに咲く花で,しかも良い香りのあるものがあるように,善く説かれたことばも,それを実行する人には,実のりが有る。




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2007年11月 6日 (火)

〈比丘の口竃(かまど)の如し〉







「比丘の口竃(かまど)の如し」

典座教訓


比丘の口竃(かまど)の如しの先言有り。
知らずんばあるべからず。




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2007年11月 5日 (月)

〈口は心に満ちたものを語る〉







「口は心に満ちたものを語る」

(マタイ12・33-35)


木がよければ実も良く,木が悪ければ実も悪いと,判断しなさい。木はその実によってわかるのである。まむしの子孫よ,悪者であるおまえたちが,どうして良いことを語ることができるだろうか。口が語ることは心からあふれ出たものだからである。良い人は,良い物を入れた倉から良い物を取り出し,悪い人は,悪い物を入れた倉から悪い物を取り出す。


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2007年11月 4日 (日)

〈決意〉







「決意」

スティーブン・バチェラー著,藤田一照訳『ダルマの実践―現代人のための目覚めと自由への指針』p94



死につつある蛇をみつけると
からすはあたかも自分が鷹であるかのようにふるまう
自分のことを犠牲者だと考えているときには
取るに足りない失敗にさえも深く傷つく

−シャーンティデーヴァー−







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2007年11月 3日 (土)

〈その差は出る息入る息くらいだよ〉







「その差は出る息入る息くらいだよ」

内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』p42



そして尚驚くべきことには,夜息しているその力がいま起きている時には刻々いろんな思いを浮かばせている。思いが浮かぶ力というのは,夜寝ている時の息の同じ力なのだ。ところがみんな自分の思いばかり大切にしていつも「思ったようにいかない」と悩んでいるけれど,なあに本当からいったら思ったようになるか,思ったようにならないかというのは,夜中の出る息入る息ぐらいの違いでしかない。




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その差は出る息入る息くらいだよ

「思ったようになるかならないか,その差は出る息入る息くらいだよ」内山興正

目からウロコが…。
結局,出る息入る息の差のことに,日常わざわざ優先順位や尊重度という"手あか"をつけて生活しているというわけか。

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2007年11月 2日 (金)

〈つらくても〉







「つらくても」

藤原新也『メメント・モリ』


つらくても,等身大の実物を見つづけなければ,ニンゲン,滅びます。




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2007年11月 1日 (木)

〈祈りながらまどろむ子ども〉







「祈りながらまどろむ子ども」

(シャルル・ペギー)


神は言う
  祈りながら まどろむ子どもほど美しいものは この世にない
 わたしは 底深い海と 奥深い森を
 そして人々の深い心をみてきた
 わたしは 一生を通じて わたしに身をささげた人々の心をみてきた
しかしわたしは もう一度言う
  祈りながら まどろむ子ほど美しいものは この世にない
みあるじは 一つの考えしかもたない
みあるじは その子が幸福であることしか望まない
神は その子の目に未来しか見ない
神は その子のまぶたの底を探す
 神のみ前で かくも美しく
 かくもなごやかなものはない
そこにあるものは 若い希望のすばらしい要約である。




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