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2007年12月31日 (月)

〈深いところでは〉







「深いところでは」

内山興正


どっちへどうころんでも自分の人生。




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2007年12月30日 (日)

〈サウロの召し出し〉







「サウロの召し出し」

(使徒行録9:1-19)



 さて,なおも主の弟子たちを脅かし,殺そうと意気込んでいたサウロは,大祭司のもとに行き,ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは主の道に従う者は,男も女も見つけしだい縛りあげ,エルサレムに引いて来るためであった。ところが,旅を続けてダマスコの近くまで来たとき,突然,天からの光が輝き,彼を包んだ。彼は地に倒れた。そのとき,「サウロ,サウロ,なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。そこで彼が,「主よ,あなたはどなたですか」と尋ねると,その声は,「わたしはおまえが迫害しているイエズスである。さあ,立って町に入れ。おまえのなすべきことが告げられるであろう」と言った。同行の者たちには,声は聞こえたが,だれも見えないので,物も言えず立っていた。サウロは地から起きあがった。しかし,目は開いていても何も見えなかった。それで,人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間,目が見えず,また,食べることも飲むこともしなかった。

 さて,ダマスコにアナニアという一人の弟子がいた。主が幻の中で,「アナニアよ」と言われると,彼は,「はい,主よ」と答えた。すると,主は仰せになった。「起きて,『まっすぐ』という道を行き,ユダの家に,サウロという名の,タルソ人を訪ねよ。彼は,今。祈っている。このサウロはアナニアという者が入って来て,再び目が見えるようにしてくれるために,自分の上に手を置くのを,幻で見たのである」。しかし,アナニアは答えて,「主よ,あの男がエルサレムで,あなたの聖なる人々に,どんな危害を加えたかを,わたしは多くの人々から聞きました。そして,ここでもあなたの名を呼ぶ者をことごとく縛りあげる権限を,大祭司から得て来ているのです」と言った。しかし,主は,「さあ,行け.彼は異邦人や王たち,また,イスラエルの民にも,わが名をもたらす器として,わたしが選んだものである。彼がわたしの名のために,どんなに苦しまねばならないかを,彼にしめそう」と仰せになった。

 そこで,アナニアは出かけて行った。そして,その家に入り,手をサウロの上に置いて,「兄弟サウロ,あなたが来る途中で,あなたに現われた主イエズスが,わたしをお遣わしになったのです。あなたが再び目が見えるようになり,また精霊に満たされるためです」と言った。すると,たちどころに,サウロの目から,うろこのような物が落ちて,再び見えるようになった。そこで,さっそく,洗礼を受け,食事をとって元気を取り戻した。



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2007年12月29日 (土)

〈諸法実相なれば〉







「諸法実相なれば」

(正法眼蔵・発無上心)



諸法実相なれば,一塵実相なり。しかあれば一心は諸法なり,諸法は一心なり,全身なり。






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諸法実相なれば

「諸法実相なれば,一塵実相なり。しかあれば一心は諸法なり,諸法は一心なり,全身なり。」(正法眼蔵・発無上心)


内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』より(p107)

 もし牛や馬,人間等をいま事実実相としてあるというのなら,目に見えないような一塵といえども事実実相だ。つまり一心,私のいのちといった限り一切ぐるみだということです。私がこうして生きているのは働けばこそ生きている。

 いつもいうように私は諸法を生命体験しつつ生き,諸法は私に生命体験されてある。そうする働きの場というのも私が生きていることだ。働きの場ぐるみが私だ。自心と万法と二つに分かれる以前の全身だ。それをみんな俺の頭だけが何とかヘソクリしようとするから野暮ったい。垢ぬけしていない。一切万法ぐるみの自己を生きなければならないのです。




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2007年12月28日 (金)

〈ゆだねる〉







「ゆだねる」

(マタイ26:39)



父よ,もしできることならば,この杯がわたしの前を通り過ぎるようにしてください。しかし,わたしの思いどおりにではなく,あなたのおぼしめしどおりにしてください。



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2007年12月27日 (木)

〈『霊』から生まれた者は霊である〉







「『霊』から生まれた者は霊である」

(ヨハネ3:5-8)



よくよくあなたに言っておく。
人は水と『霊』によって生まれなければ,
神の国に入ることはできない。
肉から生まれた者は肉であり,
『霊』から生まれた者は霊である。
『あなたがたは上から生まれなければならない』と,あなたに言ったが,
驚いてはならない。
風は思いのまま吹く。
あなたはその音を聞くが,
それがどこから来て,
どこに行くかを知らない。
『霊』から生まれた者も皆,それと同じである。



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2007年12月26日 (水)

〈智慧ある人々は〉







「智慧ある人々は」

『尼僧の告白−テーリーガーター』p20



智慧ある人々は,〈抗し難く,飽きることのない,味わいのあるその〔教え〕〉を飲む。道往く旅人が雨水を飲むように。






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2007年12月25日 (火)

〈ヴェーダナーが生起する〉







「ヴェーダナーが生起する」

(マッジーマ・ニカーヤ)



ヴェーダナー(受)には次のような六つの種類がある。眼の接触から生まれるヴェーダナー,耳の接触から生まれてくるヴェーダーナー,鼻の接触から生まれてくるヴェーダーナー,舌の接触から生まれてくるヴェーダーナー,身体の接触から生まれてくるヴェーダナー,心の接触から生まれてくるヴェーダナー。接触が起こるとともにヴェーダナーが生起する。接触の抑制とともにヴェーダナーの抑制が生起する。ヴェーダナーの抑制にいたる道とは他でもないこの八正道である。(『マッジーマ・ニカーヤ』9.42)






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2007年12月24日 (月)

〈あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい〉







「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」

(マタイ5:14-16)



あなたがたは世の光である。山の上にある町は,隠れることはできない。また,灯火をともしたとき,それをますの下に置く人はいない。燭台の上におく。こうすれば,それは家の中のすべての人々のために輝く。このように,あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。そうすれば,人々はあなたがたのよい行ないを見て,天におられるあなたがたの父をほめたたえるであろう。



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2007年12月23日 (日)

〈自ずから〉

「自ずから」
(普勧坐禅儀)

宝蔵自(おのずか)ら開けて受用如意ならん。

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2007年12月22日 (土)

〈「信」とは発見である〉

「「信」とは発見である」
(内山興正著『自己-宗派でない宗教』)

信ずるとは「ほんとうにおもうこと」「疑わぬこと」だとおもっておりますが、いまはそうではありません。信とはこの「何から何まで」の発見です。

それでもしこのような神を信じない-つまり信の反対のことをいおうとするなら、それは「疑う」ということではなしに、「未発見」というべきです。自分のどの能力をとりだしてきても、チャンとその中に働いている、そのように遍満して働いている力に対して、いまだ発見していない-未発見であるにすぎないのですから。

それに反し「信ずる」とは、このような自分の生命体験「自分が生かされている」ということの発見です。たんに発見なのですから、神を信じたからといって、とくべつなにか新しいものが付けくわわったというものではありません。いやなにか付けくわえたとすれば、それは人間のツクッタモノ、被造物でしかないでしょう。

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2007年12月21日 (金)

〈ただこれこれ〉

「ただこれこれ」
(内山興正著『観音経を味わう-東洋の行』)


悲しいときもあり

嬉しいときもあり

苦しいときもあり

絶望のときもある

しかしわたしは

「自己ぎりの自己」として

ただわたしを生きるよりほか

仕様がないではないか

どっちへどうころんでも

ただこれこれ

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2007年12月20日 (木)

〈みことばを実行しなさい〉







「みことばを実行しなさい」

(ヤコブ1:22-25)



みことばを実行しなさい。自分を欺き,ただ,みことばを聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞くだけで実行しない者は,自分の生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。その人は鏡に自分を映して眺めても,そこを離れると,どんな顔であったかをすぐ忘れてしまいます。これに反して,自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて,それを守る人は,聞いてすぐ忘れてしまう人ではなく,実際に行なう人です。このような人は,自分の行ないによって幸せになります。



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2007年12月19日 (水)

〈試練と誘惑〉







「試練と誘惑」

(ヤコブ1:12-15)



試練を耐え忍ぶ人は幸いです。これを耐え抜いた者は,主を愛する人に約束された報いとしてのいのちの冠を受けるでしょう。いかなる人も,誘惑に遭うとき,「神に誘惑される」と言ってはなりません。神は悪に誘惑されるかたでもなく,また,みずから人を誘惑するかたでもありません。しかし,人はそれぞれ,自分の欲に引かれ,そそのかされて誘惑に落ちるのです。そして,欲はみごもって罪を生み,罪は熟して死を生み出します。



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2007年12月18日 (火)

〈いつしか経験し信仰によって知ることを目指す〉







「いつしか経験し信仰によって知ることを目指す」

(コリント4:18)



わたしたちは,「見えるもの」にではなく,「見えないもの」にこそ目を注いでいます。「見えるもの」はこの世かぎりのものですが,「見えないもの」は永遠に続くものだからです。



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お薦めの本紹介!

内山興正老師の正法眼蔵味読シリーズ『正法眼蔵八大人覚を味わう』が,復刻されています!



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2007年12月17日 (月)

〈たとふべきといふは〉







「たとふべきといふは」

内山興正著『正法眼蔵 発無上心を味わう』



たとふべきといふは,親曾なるなり,端的なり。いわゆる雪山を拈来するは,喩雪山なり。大涅槃を拈来する大涅槃にたとふるなり。






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2007年12月16日 (日)

〈しるべし,たとふべきをたとふ〉







「しるべし,たとふべきをたとふ」

内山興正著『正法眼蔵 発無上心を味わう』



西國高祖曰,雪山喩大涅槃。
しるべし,たとふべきをたとふ。






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2007年12月15日 (土)

〈足が宙に浮いている〉







「足が宙に浮いている」

澤木興道著『禅談』「願の話」より



願がなければ何処におちつくのやら取りつくしまがないわけである。一寸好きになって一寸嫌になる。足が宙に浮いている。そんなことでは詰まらぬ。それこそ命がけせんならんと云ふ一つのものがなければならぬ。






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2007年12月14日 (金)

〈安心と云ふことは〉







「安心と云ふことは」

澤木興道著『禅談』「願の話」より



安心と云ふことは『願』がはっきりすることである。







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2007年12月13日 (木)

〈法門無量誓願学〉







「法門無量誓願学」

澤木興道著『禅談』「願の話」より



煩悩が無盡であるから,従って法門も無量である。






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2007年12月12日 (水)

〈坐禅の深さ〉







「坐禅の深さ」

(永平広録)



曰く,惜しむ可き哉,皮肉骨髄,知音知って後,更に知音,時の人,西来意を問わんと欲せば,面壁九年少林に在り。






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2007年12月11日 (火)

〈好坐禅の時節〉







「好坐禅の時節」

(永平広録)



曰く,近来好坐禅の時節なり。時節若し過ぐれば,什麽の著力か有らん。如く著力無くんば如何が弁肯せん。時節の力を借らば容易に弁道す。如今春風飈飈,春雨霖霖,父母所生之臭皮袋,猶お之を惜しむべし。況や仏祖正伝之骨肉髄,豈之を軽んぜんや。之を軽んずる者は真箇是れ畜生なり。良久して云く,春功不倒の処,枯樹復花を生ず。九年人識らず,幾度か流沙を過ぐ。






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2007年12月10日 (月)

〈他人を愛する者は,律法を完全に果たしている〉







「他人を愛する者は,律法を完全に果たしている」

(ローマ13:8-10)



互いに愛し合うことのほかに,だれに対してもどんな負い目もあってはなりません。他人を愛する者は,律法を完全に果たしているのです。「姦通してはならない。殺してはならない。盗んではならない。むさぼってはならない」など,また,ほかに何かおきてがあっても,それは,「隣人を自分のように愛せよ」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行ないません。したがって,愛は律法を完全に果たすものです。



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2007年12月 9日 (日)

〈今生の活命,清浄を上と為す〉







「今生の活命,清浄を上と為す」

(永平広録)



挙す,薬山因みに僧問う,「兀兀地什麽をか思量す。」
山曰く「箇の不思量底を思量す。」
僧曰く「不思量底如何が思量せん。」
山曰く「非思量。」
師云く,有心,已に謝す,無心,未だ様ならず,今生の活命,清浄を上と為す。






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2007年12月 8日 (土)

〈隣人とは誰ですか〉







「隣人とは誰ですか」

(ルカ10:25-37)



「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中,強盗に襲われた。彼らはその人の着物をはぎ取り,打ちのめし,半殺しにしたまま行ってしまった。すると,一人の祭司がたまたまその道を下って来たが,その人を見て,道の向こうがわを通って行った。また,同じく,一人のレビびとが,そこを通りかかったが,その人を見ると,レビびとも道の向こうがわを通って行った。ところが,旅をしていたあるサマリア人が,その人のそばまで来て,その人を見て哀れに思い,近寄って,傷口に油とぶどう酒を注ぎ,包帯をしてやった。それから,自分のろばに乗せて宿屋に連れて行き,介抱した。その翌日,サマリア人はデナリ二枚を取り出して,宿屋の主人に渡し,『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら,帰って来たときに支払います』と言った。さて,あなたはこの三人のうち,だれが,強盗に襲われた人に対して,隣人としてふるまったと思うか」。



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2007年12月 7日 (金)

〈わたしたちの体には〉







「わたしたちの体には」

(ローマ12:4-8)



わたしたちの体には多くの部分があるが,それらの部分がすべて同じ働きをしていないのと同様に,大勢のわたしたちも,キリストにおいて一つの体であり,一人ひとり互いに部分なのです。
わたしたちは与えられた恵みに従って,異なった賜物を持っているので,それが予言者の賜物であれば信仰に応じて預言をし,奉仕の賜物であれば奉仕を,また教える人は教え,励ます人は励まし,施しをする人は施し,つかさどる人は心を尽くしてつかさどり,慈善を行なう人は快く行なうべきです。



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2007年12月 6日 (木)

〈坐禅とは〉







「坐禅とは」

澤木興道著『禅談』「坐禅の本領」より



坐禅とは沁み沁みと自己になることだ。






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2007年12月 5日 (水)

〈瞬時も空しく過ごすな〉







「瞬時も空しく過ごすな」

中村元訳『尼僧の告白―テーリーガーター』(岩波文庫)p8



ティッサー〔尼〕よ。もろもろの善きことがらに専念せよ。瞬時も空しく過ごすな。時機を空しく過ごした人々は,地獄に堕ちて,苦しみ悩む。






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2007年12月 4日 (火)

〈言葉よりも行ない〉







「言葉よりも行ない」

(マタイ7:21)



わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者が皆,天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行なう者だけが入るのである。



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2007年12月 3日 (月)

〈この世の富の善用〉







「この世の富の善用」

(ルカ16:9-13)



わたしはあなたがたに言っておく。不正なマンモン(富の意味)を利用して,友人をつくりなさい。そうすれば,それが役立たなくなったとき,あなたがたを永遠の住み家に迎え入れてくれるだろう。

ごく小さな事に忠実な者は,大きな事にも忠実であり,ごく小さな事に不忠実な者は,大きな事にも不忠実である。

だから,もしあなたがたが不正なマンモンを用いるのに忠実でなければ,だれがあなたがたに真の富を任せるだろうか。

もし,あなたがたが他人のものについて忠実でなければ,だれがあなたがたのものをあなたがたに与えるだろうか。

どんなしもべでも,二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで,他方を愛するか,または一方に親しみ,他方をうとんずるかするものである。あなたがたは神とマンモンとに兼ね仕えることはできない。



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2007年12月 2日 (日)

〈狭き門〉







「狭き門」

(マタイ7:13-14)



狭い門から入りなさい。滅びへの門は広く,そこに通じる道は広々としていて,そこから入る者は多い。

しかし,いのちへの門は狭く,そこに通じる道は細くて,それを見つける者は少ない。



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2007年12月 1日 (土)

〈人を見るものでなしに〉







「人を見るものでなしに」

(澤木興道『生活即禅』p63)



宗教は人を見るものでなしに自分を見るものである。






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