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2008年1月31日 (木)

〈主体〉








「主体」

(上田義文著『唯識思想入門』(pp44-45))


護法の唯識説では,上に述べたように識はすべて能変であるということは,識によって識られる万物が,識の転変によって現われてくるということを意味する。そしてアラヤ識はそういう識の最も根本的なものであるとと考えられる。ところが弥勒等の説では,識はすべて能縁である。能縁であるということは主体であることを意味する。ものを知覚し思惟し表象し,さらに感じ,欲するという働きを「縁ずる」と言い,この働きをするものが心・心所であり,「唯識」という場合の「識」はこういう心・心所の全体である。この「識」は直接には,「心」を意味しうつ,いつでもそれは心所を伴ったものと考えられている(識というとき,心所も併せ含むということは護法でも弥勒等でも変らない)。こういう識(主体)の中心がアラヤ識である。この識は身体と結合している点からは,阿陀那識と呼ばれる。主体の主体たる所以は,対象化されないという点にある。われわれの心・心所は反省の作用によって対象化されることができる。しかしそういう場合にも反省作用の主体は対象化されない。アラヤ識は主体の根本であって,いかなる場合にも対象化されないで残るところの主体そのものである。






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2008年1月30日 (水)

〈生き甲斐志向〉








「生き甲斐志向」

(内山興正著「第一回 御いのち抄」のこと『拈自己抄』(pp17-18))


さてこのように仏教も基督教も一(ひと)ひっくるめにして「御いのち抄」を書くつもりになったら,旧に私のうちに,「東洋の文化は落着き志向」,これに対して「西洋の文化は生き甲斐志向」ということがはっきり浮かび上がってきました。

明治以降の日本人の人生観は,明らかに「東洋的落着き志向」から「西洋的生き甲斐志向」に急転換したといえましょう。しかもその際,この西洋的生き甲斐の背景地盤となってきている基督教については全く学ぶことはく,バッサリそれを切り捨てたまま,西洋的生き甲斐志向のみを取り入れたのでした。「大東亜恒久平和のため」という生き甲斐は,基督教的「神の国」や「共産主義社会実現のため」を「大東亜恒久平和」に書き変えただけでした。そしてこの中途半端な書き換えがみごと空中分解してしまった戦後は,もう単純明快に「欲望的生き甲斐」一本に絞り上げてしまっています。

ところがじつはこの「欲望的生き甲斐」について,聖書では,「世と世の欲は過ぎゆく」とあり,又「亡び失する獣の如し」ともあります。又仏典では,この「欲望的生き甲斐」について「煩悩」と呼ぶのであり,あるいは「遍計所執性」とも呼んでいます。一口にいって,これは人生観としては,東洋でも西洋でも,近世まではもっとも低級下品な生き甲斐,価値観とされてきたものです。いまの日本人がこれを低級下品と思わず,いかにも進んだ人生観,価値観と思うとしたら,それは日本人そのものが低級下品になってしまったからです。





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2008年1月29日 (火)

〈懺悔と誓願〉







「懺悔と誓願」



日常の自分にとって都合の善い事も悪い事も,心地いいことも不快なことも,自分と関係あることも大して関係なさそうなことも,すべて,自身が誓願に気づくプロセスをサポートしてくれている。







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私の誓願。

ここのところ,ブログの「祈りの言葉」で抜き書いていることに「誓願」に関するものが多い。というのも,ここ数ヶ月,何故か「誓願」「願」ということが,頭に浮かぶからだ。

私の誓願を言葉で表現するとどうなるだろうか…。

たぶん,私が仕事としているコーチングとその技術は,誓願を具体的に働かせるための機会と強力なツールである−というのが,現時点での自分の位置づけ。その点から行くと「その人が自由に風通しよく動けて充実した人生を送れるようにサポートすること」が,誓願と言えなくもないけれど,それは自分に与えられた誓願の一部をとりあえず言葉にしてみた段階であるような気もする。

自分に与えられた誓願。

そんな言い方をしたのは,私にとっての誓願は,自分で創り出したり設定したというより,自分以外の人から種蒔かれたもの,という感覚だからだと思う。

自分以外の人とは,師匠である故宮浦老師である。今年で七回忌。亡くなられる2ヶ月前,臘八摂心で上山した。

摂心・成道会・行茶とすべての行事が終わり,ストーブを囲んで,朝まで他の参禅者と話をしていた時,ある参禅者が私に「(在家)得度して何か変わりましたか?」と尋ねた。それを聞いていた師匠は,私が応えるよりも先に,次のように言った。

「何も変わることなんかないんだよ。私は,"この人(だけ)が悟ればいい",そんな小さなことでこの人を得度したんじゃないんだ。そんなことで縁を与えたんじゃないんだ」。

師匠を失ってから,ずっとこの言葉を抱えて来たけれど,最近この言葉が,「誓願」という言葉とともに浮かんで来るのだ。宮浦老師によって私に蒔かれた種,私の誓願…。

何だろう…。

師匠の私への最初にして最後の言葉の意味と誓願ということを,推測して解釈して,たぶんこう言うことだ,と言うことはできると思うのだけれど,それはしたくない。そんなことは意味がない。

内山老師は,『求道―自己を生きる』の中で,

「『大乗起信論義記』に「衆生の真心還って自ら衆生を教化す。これ仏の誓願なり」とあるけれど,誓願というのはなにか特別にアタマで考えて向こうに描くことではない。衆生の真心,本来の自己,それがもう誓願なんだ。だから,生来の自分から,本来の自己を見れば,これは誓願として現われる。」 (p112)

と言っている。

この内山老師の一文…。宮浦老師の「何も変わることなんかないんだよ。私は,"この人(だけ)が悟ればいい",そんな小さなことでこの人を得度したんじゃないんだ。そんなことで縁を与えたんじゃないんだ」と同じことなのだ。私は,この6年間このそうして来たように,これからもこの言葉を抱えながら,右往左往しながら,自身の誓願に気づいていくのだろう。

と書いてみて,ふと気づいた。

日常の自分にとって都合の善い事も悪い事も,心地いいことも不快なことも,自分と関係あることも大して関係なさそうなことも,すべて,自身が誓願に気づくプロセスをサポートしてくれている。

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2008年1月28日 (月)

〈妄念であるとワカル〉







「妄念であるとワカル」

内山興正著「四十七,坐禅と妄念」『宿なし興道法句参―沢木興道老師の言葉を味わう』



法句=「だれでも夫婦ゲンカしておるとき妄念(もうねん)でしておるとはおもわない。ところが坐禅しておると,それが妄念であるとようワカル。」






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2008年1月27日 (日)

〈ツクリゴト〉







「ツクリゴト」

内山興正著「五十三,ツクリゴト」『宿なし興道法句参―沢木興道老師の言葉を味わう』



法句=「思想とは『すべて出来上ったうえでの話』でしかない。仏法は『すべて出来上がる以前』のことである。」






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2008年1月26日 (土)

〈困難に対してどのような態度をとるか〉







「困難に対してどのような態度をとるか」

V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』(p38)



私は以前新聞で,難破した夫婦を描いたひとこま漫画を見たことがあります。その夫婦は,大洋のまっただ中で,小さないかだに乗ったまま漂流しているところです。夫のほうは,不安いっぱいの表情で,むだなことは明らかなのに,自分の白いシャツを振って,見えもしない船に合図をしています。けれども,妻のほうは,いかだの上にひざまずき一所懸命にたわしで丸太を磨いているのです。このひとこま漫画から読みとれるのは,こういうことではないでしょうか。この妻は,望みのないように思われる状況のなかでもなにかしら正しく堂々とふるまい,その瞬間でもやっぱりほかならない「やり手の主婦」のままだったのです。こういう妻のことを,冗談にして,とんちんかんで頭が弱いと笑いとばすのではなく,ひとつのことを行なったと考えたいものです。






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2008年1月25日 (金)

〈具体的なここにおいて問う〉







「具体的なここにおいて問う」

V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』(p30)



それはたとえば,チェスの世界チャンピョンにインタビューして,「ところで,先生,どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか」と尋ねるようなレポーターの質問が,とんちんかんなのとおなじです。そもそも,まったく特定の,具体的な勝負の局面,具体的な駒の配置をはなれて,特定のいい手,そればかりか一番いい唯一の手というものがありうるでしょうか。






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2008年1月24日 (木)

〈問いを転換する〉







「問いを転換する」

V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』(pp27-28)



私たちが「生きる意味があるか」と問うのは,はじめから間違っているのです。つまり,私たちは,生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちがたえずそのときそのときに出す問い,「人生の問い」に答えなければならない,答えを出さなければならない存在なのです。生きること自体,問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは,生きていることに責任を担うことです。

こう考えるとまた,おそれるものはもうなにもありません。どのような未来もこわくはありません。未来がないように思われても,こわくはありません。もう,現在がすべてであり,その現在は,人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。すべてはもう,そのつど私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのです。その際,どんな未来が私たちを待ちうけているかは,知るよしもありませんし,また知る必要もないのです。






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2008年1月23日 (水)

〈人間は楽しみのために生きているのではない〉







「人間は楽しみのために生きているのではない」

V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』(p22)



ふつう,貸し方には,すべての悲しみと痛みがおかれます。貸し方には,これで恵まれなかったすべてのしあわせがおかれます。けれども,この決算は,根本から間違っています。というのは,よくいわれることですが,人間は「楽しみのために生きているのではない」からです。






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2008年1月22日 (火)

〈誓願に生きる具体的働きとは〉







「誓願に生きる具体的働きとは」

『いのち楽しむ―内山興正老師遺稿集』(pp67-68)



宗教とは自己いのちが自己いのちとして落ち着く営みです。自己いのちは働きですから,自己いのちが自己いのちとして働くことだというべきかもしれません。この場合,落ち着きは働きであり,働きは落ち着きです。誓願とはこの落ち着き,働きの具体的方向,願いであって,あたかも植物が光に向かって伸びるような本来的力です。






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2008年1月21日 (月)

〈誓願をわが生命とし,深くその根を養うこと〉







「誓願をわが生命とし,深くその根を養うこと」

内山興正著『求道―自己を生きる』 (pp120-121)



その踏んづけられた生活の中で、生命を失ってはだめだ。生命を失うというのは誓願がないからだ。誓願さえあれば,どっちへどうころんでも俺の生命。このどっちへどうころんでも自己の生命を本当に生き抜くんだという誓願がある限り,どんなに踏んづけられていても,いつかかならず春がくる。春が来たら伸びるという力がある。これが生命というものだ。これは決して野心とは異なることもよく知っておいてもらいたい。






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2008年1月20日 (日)

〈誓願〉







「誓願」

内山興正著『求道―自己を生きる』 (p112)



『大乗起信論義記』に「衆生の真心還って自ら衆生を教化す。これ仏の誓願なり」とあるけれど,誓願というのはなにか特別にアタマで考えて向こうに描くことではない。衆生の真心,本来の自己,それがもう誓願なんだ。だから,生来の自分から,本来の自己を見れば,これは誓願として現われる。






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2008年1月19日 (土)

〈誓願〉







「誓願」

内山興正著『求道―自己を生きる』 (pp111-112)



そして,生来の自分から見れば,本来の自己というのは,これは向かう方向としてあるのだから,これが誓願というものだ。「衆生無辺誓願度」これは,ぶっ続きの生命として,落ちつくところへ落ち着きますようにということです。「煩悩無尽誓願断」これはそういう幻影にひきずりまわされないようにということですね。しかしながら人間にアタマがある限り幻影を描くんだから,そこで「法門無量誓願学」と,そういうことがはっきりわかるように…。「仏道無上誓願成」,落ちつき場所に落ちつくようにと,こういうことですね。つまり本来の自己として、落ちつき場所に落ちつくようにと,これが世願です。






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2008年1月18日 (金)

〈生を明らめ死に通達するとは〉







「生を明らめ死に通達するとは」

内山興正著『正法眼蔵行仏威儀を味わう』(pp138-139)



「了生達死の大道すでに豁達するに,ふるくよりの道取あり。大聖は,生死を心にまかす,生死を身にまかす,生死を道にまかす,生死を生死にまかす。この宗旨あらはるる,古今のときにあらずといへども,行佛の威儀,忽爾として行持するなり,道環として生死身心の宗旨すみやかに辨肯するなり。」


 了生とは生を明了にする,明らかにすること。達死は死に通達すること。豁達とは四方が広々と開けていること。つまり生を明らめ死に通達するとは,生のときは生の心に任せ,死のときは死の心に任せる。生のときは生の身に任せ,死のときは死の身に任せることだ。
 ところが普通はどうか。生のときには我見,慢心,貪欲に任せているから,いざ死ぬという段になるとそのノボセ上がりの分だけは本当に奈落の底へ吸い込まれるような思いをせざるをえない。






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2008年1月17日 (木)

〈寒苦をおづることなかれ〉







「寒苦をおづることなかれ」

(道元禅師『正法眼蔵・行持』)



寒苦をおづることなかれ
寒苦いまだ人をやぶらず
寒苦いまだ道をやぶらず
ただ不修をおづべし






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2008年1月16日 (水)

〈悟るといふ事より不迷〉







「悟るといふ事より不迷」

(澤木興道『生活即禅』p83)



吾々は佛性といふものを持って居るのです。佛性といふとをかしいが詰り吾々は宇宙と少しも懸け離れいない。吾々の細胞の一つひとつが宇宙と懸離れていない宇宙の真理から免職喰つていない,だから悟るといふ事より不迷という事が根本です。






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2008年1月15日 (火)

〈道というものは〉







「道というものは」

櫛谷宗則編『澤木興道老師のことば』(p104)



道というものは
「人に聞くもの」でなく
「自己に立ち帰る」
ことである。





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2008年1月14日 (月)

〈生きることの根本−最高価値〉







「生きることの根本−最高価値」

「【八つ不戯論】5「天地一杯の私を生きる」これが大切」『内山興正法話集~天地一杯の生命~』



「愚図らす,真っ直ぐに,寝たきり老人になる」。
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これが私の天地一杯なのだ。






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2008年1月13日 (日)

〈いのちが矛盾そのものなのだ〉







「いのちが矛盾そのものなのだ」

(内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』p87)



しかあるに小乗愚人いはく,造像起塔は有為の功業なり,さしおきていとなむべからず,息慮凝心,これ無為なり。無生無作,これ真実なり。法性実相の観行,これ無為なり。かくのごとくいふを西天東地の古今の習俗とせり。






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2008年1月12日 (土)

〈これが衲の『願』です〉







「これが衲の『願』です」

澤木興道著『禅談』「願の話」より



人達はよく金を欲しがるが,衲には金も要らん,何も要らん。唯お粥すすつて坐禅する一本道より外にない。何とかして皆に坐禅をさせようと云うのが願で此の外には何もない。願に叱られて,見とどけられて,睨まれて,割合に科なきに近い生活をして,とぼとぼと歩いて行く澤木と云う坊主を,自分で見詰めて行く…端的に云えば自分を坐禅に投げ入れて,坐禅に叱られ,坐禅に手を引かれて此の一生涯を渡る,これが衲の『願』です。






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2008年1月11日 (金)

〈アリマタヤのヨセフ〉







「アリマタヤのヨセフ」

(マルコ15:42-43)



もはや夕方になった。その日は準備の日,すなわち安息日の前日にあったので,尊敬すべき議員の一人,アリマタヤのヨセフが,大胆にもピラトのもとに行き,イエズスの体のさげ渡しを願い出た。彼もまた神の国を待ち望んでいた人だったのである。



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2008年1月10日 (木)

〈私の行為において私を作り出している〉







「私の行為において私を作り出している」

(正法眼蔵・発無上心)



「身心のなかにして,發菩提心するなり」






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私の行為において私を作り出している

「身心のなかにして,發菩提心するなり」

内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』(pp83-84)

 お釈迦さまの言葉がそのまま残っているのではないかといわれているスッタニパータという古いお経に,こんな言葉が載っています。
 「生まれによって賎しい人なのではない。生まれによってバラモンなのでもない。行為によって賎しい人ともなり,行為によってバラモンともなる」
 先ほどお話しした徳を積む行為をする人はバラモンだし,徳を損ずる人は賎しい人だ。私というのは「私として働く行為のカタマリ」によって私なのだから,ヌスットすれば私は泥棒,坐禅すれば私は諸仏,布施すれば豊かな人,貧れば賎しい人,さらに一切を愛すれば一切の母,一切を傷つければ一切の怨敵となる。いつもいまの私の行為において私を作り出しているのです。そういう実際行動,つまり能所のない働きの場ぐるみの身心によって発菩提心する。

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2008年1月 9日 (水)

〈どんな因縁でも必ず〉







「どんな因縁でも必ず」

(正法眼蔵・発無上心)



かくのごとく八萬法蘊の因縁,かならず發心なり。
 ・
 ・
 ・
これみな發菩提心中にして,さらに發菩提心するなり。






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どんな因縁でも必ず

「かくのごとく八萬法蘊の因縁,かならず發心なり。…これみな發菩提心中にして,さらに發菩提心するなり。」

内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』(pp77-81)

出会う処わが生命なのだから,どんな因縁でも必ず発心の処だ。眼の中に入れても痛くないくらい可愛がっていた子供が死んでしまった−それが発心の因縁だ。それでとにかく南無仏と称える。
 ・
 ・
 ・
以上のことを引っ括って,誰でも彼でも発菩提心中に生きているのだから,さらにそれを実際にやるのが発菩提心だといわれる。つまりわれわれ御いのちを生きているのだから,御いのちとして生きようということです。これ何も特別なことではない。当り前のことだ。それなのにみんなブッ続きの御いのちをくらまされているのは,思いで自分のヘソクリばかり考えるからだ。
 ・
 ・
そんな生き方は野暮ったい。垢ぬけしていない。全く中途半端だ。本当はそういう思いの湧いてくる根底地盤に御いのちがある。われわれいつも物足りようと思ってやまない自分であるわけですが,実はあらゆる思い以上の力で生きているのです。

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2008年1月 8日 (火)

〈兄弟を裁くな〉







「兄弟を裁くな」

(ローマ14:1-3)



信仰の弱い人を受け入れなさい。その考え方をとやかく言ってはなりません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが,弱い人は野菜だけを食べています。食べる人は食べない人を侮ってはいけません。また,食べない人も食べる人を裁いてはいけません。神がその人をも受け入れられたからです。



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2008年1月 7日 (月)

〈光あるうちに〉







「光あるうちに」

(ヨハネ12:35-36)



もうしばらくの間,
光はあなたたちのうちにある。
闇に追いつかれないように,
光のあるうちに歩きなさい。
闇の中を歩く人は,
自分がどこへ行くのかを知らない。
光のあるうちに,
光の子となるために光を信じなさい。



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2008年1月 6日 (日)

〈人間以上のことをのぞまない〉







「人間以上のことをのぞまない」

櫛谷宗則編『澤木興道老師のことば』(p86)



道元禅師の教えは,
けっして
人間以上のことを
のぞまない。
空想がなくなり,
奇跡がなく
アタリマエに
なることである。




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2008年1月 5日 (土)

〈善=ただ奉行する〉







「善=ただ奉行する」

内山興正「諸悪莫作を味わう」『正法眼蔵 有時・諸悪莫作を味わう』p173)


衆善奉行,この衆善は,三性のなかの善性なり。善性のなかに衆善ありといへども,さきより現成して行人をまつ衆善いまだあらず。




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2008年1月 4日 (金)

〈頭を生命として働かす〉







「頭を生命として働かす」

内山興正「諸悪莫作を味わう」『正法眼蔵 有時・諸悪莫作を味わう』p144)


正当恁麽時の正当恁麽人は,諸悪つくりぬべきところに住し往来し,諸悪つくりぬべき縁に対し,諸悪つくる友にまじはるににたりといえども,諸悪さらにつくられざるなり。莫作の力量現成するゆゑに,諸悪みづから諸悪と道著せず,諸悪にさだまれる調度なきなり。




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頭を生命として働かす

「正当恁麽時の正当恁麽人は,諸悪つくりぬべきところに住し往来し,諸悪つくりぬべき縁に対し,諸悪つくる友にまじはるににたりといえども,諸悪さらにつくられざるなり。莫作の力量現成するゆゑに,諸悪みづから諸悪と道著せず,諸悪にさだまれる調度なきなり。」

内山興正「諸悪莫作を味わう」『正法眼蔵 有時・諸悪莫作を味わう』pp146-148

 正当恁麽とは「まさにこれ」という意味で「正当恁麽時の正当恁麽人」とは,生命実物時の生命実物人ということ。そうであれば「諸悪つくりぬべきところに住し往来し,諸悪つくりぬべき縁に対し,諸悪つくる友にまじはるににたりといえども,諸悪さらにつくられざるなり」という。

(略)

 千利休の歌に「寒熱の地獄に通う茶杓子も心なければ苦しみもなし」というのがある。茶杓子は,冷たい水のなかに入れられたり,熱湯のなかにいれられたりしても,心がないから別に地獄とは思わない。われわれも人情をはずしてみれば,寒熱もなんともないというところがある。われわれとしては,なるべくなら諸悪をつくるような友に交わらないほうがいい。だが悪友に交わるときもありうる。そんな場合,悪友と同じように悪いことをしなければならないというものでもない。皆さんのお子さんも中学から高校あたりで悪友に交わることがあるでしょう。しかし交わったからといって悪いことをしなければならないわけではない。そのためには人情をはずすということが大切です。人情をはずすといっても,なにも植物人間になることではない。頭は精一杯働かしていいのです。ただし頭を頭として働かすから問題がある。頭を生命として働かす。天地いっぱい永遠の生命として働かす。そのあたりが狙いです。そのとき「諸悪つくられざるなり」です。

(略)

 莫作とはアタマの手放しです。生命実物に帰ることです。このときに「なんともない」ところがある。
 私がはじめて坊主になったとき,意地の悪い兄弟子格の奴がいて,随分意地悪をされた。そこで発見したのは心の蝶つがいをはめておくと怪我をする。意地悪に出逢ったときははずしておくと何ともない。皆さんも職場の人事問題などで意地の悪い人に出逢ったときは,蝶つがいをはずしておくといい。「道著せず」とは決まったことがないということです。ピストルを持ったからといって人を撃たねばならないと決まっていない。諸悪に定まれる調度はない。

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2008年1月 3日 (木)

〈諸悪莫作〉







「諸悪莫作」

内山興正「諸悪莫作を味わう」『正法眼蔵 有時・諸悪莫作を味わう』p162)


諸悪なきにあらず,莫作なるのみなり。諸悪あるにあらず,莫作なるのみなり。諸悪は空にあらず莫作なり,諸悪は色にあらず,莫作なるのみなり。




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諸悪莫作

 「諸悪なきにあらず,莫作なるのみなり。諸悪あるにあらず,莫作なるのみなり。諸悪は空にあらず莫作なり,諸悪は色にあらず,莫作なるのみなり。」

内山興正『正法眼蔵 有時・諸悪莫作を味わう』より(pp162-163)

自己の依り処は自己のみ 他に依止する者は動揺す

 悪というものは有るのでもない無いのでもない莫作である,というところから諸悪は莫作にあらず,莫作なるのみなりともってくる。いかにも道元禅師らしい格調の高い文章で,しかも親切に行き届いている。
 あるとかないとかは,要するに観察的な話で,いま,自己にとって,自己は生命実物なのだ。実物とは,いま自分がいかにあるか,ただそれだけです。そのときはただアタマ手放しのみ。諸悪という価値判断を否定するのではなく,ただ手放しのみという莫作が大切だ。

 「たとへば春松は無にあらず有にあらず,つくらざるなり。秋菊は有にあらず無にあらず,つくらざるなり」
 春の松と秋の菊をもち出したのは,大自然そのままという意味です。諸悪莫作といえば,いかにも悪を作るなという戒めのように受け取られるが,そうではない。莫作とは,大自然のまま,いらいなぶりをしないということです。「いらい,なぶりなし」とは沢木老師がいわれた言葉ですが,たとえば金魚鉢に手を入れてひっかきまわすと,金魚がぐるぐる廻りながら必死に泳ぐ。その姿を身振りしながら話された姿をいまでも思い出しますが,それはまったく,いまの世間の人の必死に泳ぎまわっている姿でもあるじゃないですか。−−諸法は実相,無にあらず有にあらず,大自然そのままなのだから,金魚鉢に手を入れてクルクルッとひっかきまわすようないらい,なぶりをしてはいけないのだ。
 「諸仏は有にあらず無にあらず莫作なり」
 諸仏といえば,みなどうしても自分の外にある偉い人で,だから有難いと思う。そうではない。自分の外側に諸仏をみてはいけない。自己が修行するということに諸仏をみる。その場合はただアタマ手放しに修行する。作りことなし,莫作だけです。

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2008年1月 2日 (水)

〈方便の姿〉







「方便の姿」

櫛谷宗則編『澤木興道老師のことば』(p30)



どの姿もみな衲(わし)を済度(さいど)するための方便の姿である。
衲に油断させまいと思って敵となって現われ,
衲に怠けさせまいと思って悪魔となって現われる。





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2008年1月 1日 (火)

〈大切なことは〉







「大切なことは」

内山興正「諸悪莫作を味わう」『正法眼蔵 有時・諸悪莫作を味わう』p133)


過去のことは,もう終わったのだ。
未来のことは,ただ方向なのだ。
大切なことは,いま,その方向に向って事実やることだ。





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