〈主体〉
「主体」 (上田義文著『唯識思想入門』(pp44-45)) 護法の唯識説では,上に述べたように識はすべて能変であるということは,識によって識られる万物が,識の転変によって現われてくるということを意味する。そしてアラヤ識はそういう識の最も根本的なものであるとと考えられる。ところが弥勒等の説では,識はすべて能縁である。能縁であるということは主体であることを意味する。ものを知覚し思惟し表象し,さらに感じ,欲するという働きを「縁ずる」と言い,この働きをするものが心・心所であり,「唯識」という場合の「識」はこういう心・心所の全体である。この「識」は直接には,「心」を意味しうつ,いつでもそれは心所を伴ったものと考えられている(識というとき,心所も併せ含むということは護法でも弥勒等でも変らない)。こういう識(主体)の中心がアラヤ識である。この識は身体と結合している点からは,阿陀那識と呼ばれる。主体の主体たる所以は,対象化されないという点にある。われわれの心・心所は反省の作用によって対象化されることができる。しかしそういう場合にも反省作用の主体は対象化されない。アラヤ識は主体の根本であって,いかなる場合にも対象化されないで残るところの主体そのものである。 |
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