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2008年1月29日 (火)

私の誓願。

ここのところ,ブログの「祈りの言葉」で抜き書いていることに「誓願」に関するものが多い。というのも,ここ数ヶ月,何故か「誓願」「願」ということが,頭に浮かぶからだ。

私の誓願を言葉で表現するとどうなるだろうか…。

たぶん,私が仕事としているコーチングとその技術は,誓願を具体的に働かせるための機会と強力なツールである−というのが,現時点での自分の位置づけ。その点から行くと「その人が自由に風通しよく動けて充実した人生を送れるようにサポートすること」が,誓願と言えなくもないけれど,それは自分に与えられた誓願の一部をとりあえず言葉にしてみた段階であるような気もする。

自分に与えられた誓願。

そんな言い方をしたのは,私にとっての誓願は,自分で創り出したり設定したというより,自分以外の人から種蒔かれたもの,という感覚だからだと思う。

自分以外の人とは,師匠である故宮浦老師である。今年で七回忌。亡くなられる2ヶ月前,臘八摂心で上山した。

摂心・成道会・行茶とすべての行事が終わり,ストーブを囲んで,朝まで他の参禅者と話をしていた時,ある参禅者が私に「(在家)得度して何か変わりましたか?」と尋ねた。それを聞いていた師匠は,私が応えるよりも先に,次のように言った。

「何も変わることなんかないんだよ。私は,"この人(だけ)が悟ればいい",そんな小さなことでこの人を得度したんじゃないんだ。そんなことで縁を与えたんじゃないんだ」。

師匠を失ってから,ずっとこの言葉を抱えて来たけれど,最近この言葉が,「誓願」という言葉とともに浮かんで来るのだ。宮浦老師によって私に蒔かれた種,私の誓願…。

何だろう…。

師匠の私への最初にして最後の言葉の意味と誓願ということを,推測して解釈して,たぶんこう言うことだ,と言うことはできると思うのだけれど,それはしたくない。そんなことは意味がない。

内山老師は,『求道―自己を生きる』の中で,

「『大乗起信論義記』に「衆生の真心還って自ら衆生を教化す。これ仏の誓願なり」とあるけれど,誓願というのはなにか特別にアタマで考えて向こうに描くことではない。衆生の真心,本来の自己,それがもう誓願なんだ。だから,生来の自分から,本来の自己を見れば,これは誓願として現われる。」 (p112)

と言っている。

この内山老師の一文…。宮浦老師の「何も変わることなんかないんだよ。私は,"この人(だけ)が悟ればいい",そんな小さなことでこの人を得度したんじゃないんだ。そんなことで縁を与えたんじゃないんだ」と同じことなのだ。私は,この6年間このそうして来たように,これからもこの言葉を抱えながら,右往左往しながら,自身の誓願に気づいていくのだろう。

と書いてみて,ふと気づいた。

日常の自分にとって都合の善い事も悪い事も,心地いいことも不快なことも,自分と関係あることも大して関係なさそうなことも,すべて,自身が誓願に気づくプロセスをサポートしてくれている。

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