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2008年2月29日 (金)

〈尽くす〉







「尽くす」

どうしていいか分からない。
だから,どうもしないで,やるべきことをやり尽くす。


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2008年2月28日 (木)

〈妥協なし〉







「妥協なし」

実物に刻々と出会い続ける。


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2008年2月27日 (水)

〈願心=決意〉







「願心=決意」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(p270)



願心とは根本においては,あるやり方で行動しようとする決意のことです。
理想(〜したいという夢)はこの決意を表す象徴になるのです。






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2008年2月26日 (火)

〈願心を発見する〉







「願心を発見する」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp263)



チェータナー(「思」)とチャンダ(「求」)の違いを考察してみましょう。チェータナーは目的志向的な意思であり,それに対してチャンダは願心です。

目的を設定するとき多くの人は自分がビジョンを育てているのだと思っています。「わたしはあの仕事を絶対に手に入れるぞ」,「極東で休暇を過ごすためにお金を貯めるぞ」,「マリーと付き合いたい」……こういった目的はしばしば自己構造を超えることではなく,それを維持することの方により強く関わっています。それらの目的の中にはいろいろな程度の自己注入(self-investment)が潜んでいます。それらはどこまでもその人の個人的物語の一部なのです。しかし,共通の要因はそれ自身のうちに稀少な要因の種子を含んでいるということをこれまで見てきました。ですから,それらの個人的な思惑の中にも,より高尚な可能性の種子が埋められているのです。その埋められている願心を発見することを通して,閉じ込められたエネルギーを解放する可能性があるのです。






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2008年2月25日 (月)

〈地に足がついているという経験を背景へと沈める〉







「地に足がついているという経験を背景へと沈める」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(p223)



出会いは外へと向かう集中です。それが目指すのは,出会う人に良質の注意を注ぐことです。グラウンディングだけではそれを成就することができません。グラウンディングは人との相互交流における揺るぎなさを与えてくれますが,単に地に足がついているだけでは,わたしたちの注意が身体感覚に過剰にとらわれて,他の人の言うことを聞き取ったり,状況を経験する上で十分でないことがあります。人の言うことに耳を傾けるという仕事を本当におこなうことができるように,地に足がついているという経験を前面に出すのではなく,むしろ背景へと沈めることが必要なのです。






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2008年2月24日 (日)

〈抗わない〉







「抗わない」

抗いたい気持ちがある自分にも抗わない。


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2008年2月23日 (土)

〈思→願心〉







「思→願心」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp134-135)



チェータナー(漢訳語では「思」)はチャンダ(chanda:漢訳語は「求」),つまり願心(アスピレーション)に変容することができます。小さな意図が大きな願いに変わるのです。この両者の区別がはっきりつくと,チェータナーの持っている自分の手に握りこもうとする性質が明確になります。チェータナーは私的な貪欲さに駆り立てられているのです。それは「私はこれが欲しい」,「わたしはこれを勝ち取るぞ」と常に言い立てています。それに対してチャンダは個人的な意味注入をおこなっていない大きな願い,つまり,小さな自己の外にある「何か」大いなるものとのつながりに由来する大志を意味しています。願いとは他である何かに対する信頼(faith)の表現なのです。






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2008年2月22日 (金)

〈私とあなたとぶっ続きの要領を呑み込む〉







「私とあなたとぶっ続きの要領を呑み込む」

澤木興道著『禅談』「最高の幸福」より



『二乗は精進して道心なく』−。二乗はどれだけ努力しても,自分だけ楽をしよう,自分だけ再び生死界に迷はないようにしようと,自分だけの為だけの為の精進であるから道心がない。道心とは,私とあなたとぶっ続きの要領を呑み込むことです。この要領が呑み込めたら道心が起こる訳です。







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2008年2月21日 (木)

〈是が一番目出度い〉







「是が一番目出度い」

澤木興道著『禅談』「最高の幸福」より



仏道から引っぱられて,この凡夫根性の僻みが無くなり,仏道の侭に引っぱられて行く,それが信仰生活である。







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2008年2月20日 (水)

〈知足〉







「知足」

澤木興道著『禅談』「少欲と知足」より



足るを知ると云ふことは,前後を裁断してそれになり切ると云ふことである。

花は全花,実は全実と云ふことである。花は実を結ぶ為めの花ではなく,花の時は花の全花である。実は花の終りではなく,実の時は実の全実である。

月給のために仕事をするのじゃない。仕事の時は全仕事で,仕事になり切ること,仕事の為めの仕事である。さうなれば,こんなに働いたのに,こんな月給ぢや馬鹿らしいと云ふ不平の起こる筈もない。勉強も修行も,勉強の三昧,修行の三昧である。試験の為めの勉強,就職のための勉強でない。天国行きや悟りのための修行ではない。

仏教は未来のことや過去のことを云つているんぢやない。過去は盗人だつたから今正直者になれぬと云ふのぢやない。現在を見つめるのです。現在の心持ちを尊ぶのです。其処に不変の大生命があるのです。






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2008年2月19日 (火)

〈少欲〉







「少欲」

(道元禅師)



彼の未得の五欲の法の中に於て広く追究せざるを少欲となす。






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2008年2月18日 (月)

〈ディフェンシブ〉







「ディフェンシブ」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』



自己(セルフ)とは,苦悩に対する反応の中に組み込まれている防衛構造(defense structure)である。






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2008年2月17日 (日)

〈坐禅〉







「坐禅」

そっと捉えどころのない自分に寄り添う。


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2008年2月16日 (土)

〈そもそも〉







「そもそも」

宗乗自在,何費功夫。


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2008年2月15日 (金)

〈そもそも〉







「そもそも」

原夫道本円通,争仮修行証。


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2008年2月14日 (木)

〈種は蒔かれている〉







「種は蒔かれている」

「何も変わることなんかないんだよ。私は,“この人(だけ)が悟ればいい”,そんな小さなことでこの人を得度したんじゃないんだ。そんなことで縁を与えたんじゃないんだ。」


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2008年2月13日 (水)

〈気まぐれ心〉







「気まぐれ心」

内山興正著「五十,気まぐれ心」『宿なし興道法句参―沢木興道老師の言葉を味わう』



法句=「アタマの皮がザボンの皮のように厚いとナンデモ入らない,兵隊軍人のように単純なアタマだとノビがきかない。生命はもっとノビのきくものでなければならぬ。」






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2008年2月12日 (火)

〈願〉







「願」

刻々と変わって行く今を大切して親しむ。


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2008年2月11日 (月)

〈尽〉







「尽」

この身をもってまっとうする。


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2008年2月10日 (日)

〈一番欲しいもの〉







「一番欲しいもの」

(澤木興道『生活即禅』pp70-71)



吾々の一番欲しいものは何かと云ふと眞の自分が欲しい。詰り神と続いて居る自分,佛と続いて居る自分,神とも佛とも言われる本当の自分を知ることです。






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2008年2月 9日 (土)

〈願〉







「願」

私に託された“願”は,
様々な出合いの中で発見される。


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2008年2月 8日 (金)

〈味わい尽くす〉







「味わい尽くす」

それが自身にとって
どんなに善い状況でも
どんなに過酷な状況であっても
実物は活き活きとしている
それを
瞬間瞬間
味わうことができるように…


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2008年2月 7日 (木)

〈味わい尽くす〉







「味わい尽くす」

正法眼蔵 現成公案


山河大地日月星辰これ心なり。

牆壁瓦礫これ心なり。

草木国土これ心なり。



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2008年2月 6日 (水)

〈一方を証するときは一方はくらし〉







「一方を証するときは一方はくらし」

正法眼蔵 現成公案


身心を挙して色を見取し,身心を挙して声を聴取するに,したしく会取すれどもかがみにかげをやどすがごとくにあらず,水と月とのごとくにあらず,一方を証するときは一方はくらし。仏道をならふといふは,自己をならふなり,自己をならふといふは自己をわするるなり,自己をわするるといふは万法に証せらるるなり,万法に証せらるるといふは自己および他己の身心をして脱落せしむなり。



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2008年2月 5日 (火)

〈求むべからず唯やって見る〉







「求むべからず唯やって見る」

(澤木興道『生活即禅』pp121-122)



…佛教の三量と云ふて,現量比量非比量といふことがありますが,是はどういふことかと云ふとに,比量(HIRO:非比量?)といふのは冬瓜のぶらさがっているのを入道と間違へたいふようなことです。臆病者が恐ろしい餘り實に冷たいものがあつたといふて逃げて来た,大勢で言って見たら冬瓜だった。褌が干してあるのを幽霊と思って気絶した。夜が明けたら褌だつた。斯ういうものが澤山さるのですがそれを非比量といふ。比量とは垣を隔てて角を見て牛なることを知る。山を隔てて火を見て火事なりと思うと云ふことがある。所が火でなくて雲のことがある,垣を隔てて角を見ても,牛でなく小羊であることもある。コケツコーといふても鶏と思ふたら豈に図らんや物真似の上手な者がやつたといふに過ぎない。斯ういうもの間違もある。現量といふのはその実物にぶつかつたこと,牡丹飴とはどんなものであるか,アイスケーキとはどんなものかどうんなものだらうと,一つやつて見たらうん成程かういふものか,アイスクリームといふものはどんな物だろう,デパートで売つて居るがどんな物だらうと思ふて食つて見るとあああんなものだとちゃんと分かる。あんなものだ斯んなものだと云う意識が出来る。それが無念無想其のものにぴつたりぶつかる。現量にぶつつかる。それを不思量底を思量せよ不思量底如何思量せん非思量といふ。つまり,坐禅が意識の問題でなしに坐禅そのものが現実の問題坐禅そのものが非量でなしに現量の問題になって来る。






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2008年2月 4日 (月)

〈仏法を具現する〉







「仏法を具現する」

(澤木興道『生活即禅』pp114-115)



坐禅は佛法の極意である。我の形で佛法を具現すると云う事が坐禅である。


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唯坐禅は坐禅きり,坐禅はそれ自身が目的であり,彼岸であり,最高価値である。






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2008年2月 3日 (日)

〈迷いも悟りも途中〉







「迷いも悟りも途中」

(澤木興道『生活即禅』pp84-85)



吾々の求むべき所の的は元の通りのものを求めるのであって迷ったのも途中の事であり悟ったのも途中のことである。即ち迷いもせず悟りもせずといふのが根本である。






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2008年2月 2日 (土)

〈態度をもって自ら悟る〉







「態度をもって自ら悟る」

(澤木興道『生活即禅』pp77-78)



最も正しい態度に宿ったものが最も正しい精神である。






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2008年2月 1日 (金)

〈状況を変革することは,私たちの心を変革すること〉








「状況を変革することは,私たちの心を変革すること」

ティク・ナット・ハン著『仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす』(p109))


したがって,私たちは,現実的真理,現実的状況を見通さなければなりません。私たちの日常生活,ものの飲み方,何を食べるかが,世界の政治的状況と関わっているはずです。

瞑想は,ものごとの内側を深く見,どうしたら自らを変え,どうしたら状況を変革するかを見通すことです。

状況を変革することは,私たちの心を変革することでもあります。私たちの心を変革することは,また,状況を変革することです。なぜかというと,状況は心であり,心は状況であるからです。






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