« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »

2008年3月31日 (月)

〈心を放下して,知見解会を捨てる〉







「心を放下して,知見解会を捨てる」

「【八つ不戯論】5「天地一杯の私を生きる」これが大切」『内山興正法話集~天地一杯の生命~』



『正法眼蔵随聞記』にこんな言葉があります。
「道を得ることは,心を以て得るか,身を以て得るか。今わが家は,身心ともに得るなり。其の中に心を以て仏法を計校する間は,万劫千生得べからず。心を放下して,知見解会を捨てるとき得るなり。…中略…然あれば心の念慮知見を一向に捨て只管打坐すれば,道は親しみ得るなり。然あれば道を得ることは,正しく身を以て得るなり」
私にとっていちばん大切なのはこのことなのです。
私という男は,澤木老師にいわれると造作が多すぎるそうです。たしかに,なにかというとすぐ考える。しかし,坐禅をするときまで考えていたのでは救われようがない。
そこで私は,若い頃はいつも坐禅に入る前の晩,寝る前に必ずこの文章を読んで,自分の頭で考えたら仏法はダメなのだとよく自分に言い聞かせました。そして,「心を放下して,知見解会を捨てる」ことが大切なのだ。道を得ることは,正しく身を以て得るなり,ただ身体でやるよりほかないのだ,ということを一生懸命自分にいいきかせたのです。






| | | コメント (0)

2008年3月30日 (日)

〈誰がともづなを解く?〉







「誰がともづなを解く?」

結局,自分のともづなを解くのは自分なのだ。


| | | コメント (0)

2008年3月29日 (土)

〈大安楽の法門〉







「大安楽の法門」

(宮浦信雄老師の言葉より)

坐禅は『大安楽の法門』といわれるように何時でも何処でも誰にでもできるものです。ただ半畳程の場所を得て静かに坐し,身を正し,呼吸を整えて,日頃は外ばかりに向いている心を止めれば,たちまち本来の自己が現れ出るでしょう。そこには自己も他己も全てが同じ生命世界として依り寄って在ることが体感されるでしょう。

このところから見直しつつ行けば,自分に対して他の何事に対しても,素直な処し方,生き方も現われてくるのではないでしょうか。


| | | コメント (0)

2008年3月28日 (金)

〈思うこと・あること・すること〉







「思うこと・あること・すること」

奥村一郎『祈り』(p107)



キリスト者の祈りは,思うこと(心理的),あること(存在論的)はすべて,すること,すなわち神のみ旨を果たすことの願いと,その絶えまない努力に収斂されていくものでなくてはならない。







| | | コメント (0)

2008年3月27日 (木)

〈きく(7)〉







「きく(7)」

奥村一郎『祈り』(pp70-71)



 み名の尊まれんことを
 み国の来らんことを
 み旨の天におこなわるるごとく
 地にも行なわれんことを

神にきくキリスト者の祈りは,ひっきょう,この願いに集約されることになる。しかし,この主の願いをわたしたちの願いとするためには,み旨ならぬ多くのものを切り捨てることを知らねばならぬ。キリストのことばによって,刈りこまれることを学ばなくてはならない。しかも,わたしたちを刈りこむのは,ときには他人の批判や誤解,しっとや権力,あるいは神の愛さえもまったく見ることができない不慮の災いや,試練の残酷な斧である。しかし,「この世が与える平和ではなく,わたしの平和」(ヨハネ14・27)と言われる主の平安は,このようなきびしい刈りこみによってのみ与えられる。十字架のないところに,復活はありえない。なんぴとも奪うことのできないまったき喜び(ヨハネ16・22)を生みだす主における心の静寂は,常に十字架上の神の血によってあがなわれたたまものである。







| | | コメント (0)

2008年3月26日 (水)

〈きく(6)〉







「きく(6)」

奥村一郎『祈り』(p69)



このように,キリストに従うことは,まったく自己を無にすることである。「裸になって,裸のものに従う(Hieronymus:nudus nudum sequitur)こと」であり,それは,徹底的に「刈りこまれる」ことにほかならぬ。「本質的なものに接ぎ木され,枝葉のものを切り捨てること」が芸術の大原則であると言ったのは,フランスの偉大なる彫刻家ザツキンのことばである。霊性の世界,キリストとのかかわりにおいては,いっそう,そのことが言われなくてはならない。







| | | コメント (0)

2008年3月25日 (火)

〈きく(5)〉







「きく(5)」

奥村一郎『祈り』(pp66-68)




そこで,第四に,「きく」とは「従うこと」を意味する。



次に「従う」とは,言いかえれば「と,ともみある」ことであり,それも「常に…と,ともにある」ことを意味してくれる。これがヨハネにおける重要な用語の一つ「とどまる」という言葉に変化する。



この「とどまる」はヨハネ第十七章において,さらに「一つのものとなる」という意味に展開させられていく。キリストに従うとは,したがってキリストと常にともにあることであり,キリストと一つになること,さらに言えば,キリストのものになりきることと同意語になっていくる。








| | | コメント (0)

2008年3月24日 (月)

〈きく(4)〉







「きく(4)」

奥村一郎『祈り』(pp65-66)




わたしたちの心のなか,頭のなかにはあまりにも多くの声がする。自分自身の欲望やごうまん,他人に対する批判や非難などのために,神のことばが隠されているはずの日常のできごとを反芻することも,消化することもできず,それにどろを塗りたくったり,毒を入れたりして,まったく食べられないものにしてしまうのが人間の常である。さらには,まことしやかな自己弁護の声が強い盾のようになって神の声をきこえなくし,いつのまにか自分自身の耳が悪くなっていることさえきづかないでいる。







| | | コメント (0)

2008年3月23日 (日)

〈きく(3)〉







「きく(3)」

奥村一郎『祈り』(p65)



第三に,「きく」ということばは,「ききわける」ことを意味する。「わたしの羊は,わたしの声をききわけ,わたしに従い,わたしもかれらを知っている」(ヨハネ10・27),日本語で「わかる(分かる)」は,「わける(分ける)」からくると言われるように,「ききわける」とは,だれの声かがわかること,すなわち「声を知る」ことであり,さらに「声のを知る」ことである。







| | | コメント (0)

2008年3月22日 (土)

〈きく(2)〉







「きく(2)」

奥村一郎『祈り』(p64)



「神にきく」とは,これと異なり,「神に聴くこと」,すなわち「注意深く神のことばに耳を傾ける」ことである。とりたてて言うまでもないことであるが,これが「神にきく」ことの第一の意味,第二は,きいたことを「心にとめて,思いめぐらす」ことである(ルカ2・19,51)。それに,神の語りかけは,いつも「ことばによる」のではない。それはむしろ例外である。神がわたしたちに語りかけるのは,何よりも「できごと」をとおしてである。






| | | コメント (0)

2008年3月21日 (金)

〈きく(1)〉







「きく(1)」

奥村一郎『祈り』(p63)



そもそも「きく」ということばは,聖書のなかでも非常に重要なことばのひとつとなっている。旧約聖書では,約千百回用いられ,旧約に比べてはるかに小冊子の新約聖書に四百二十五回でてくる。統計的頻度だから,そのことばの軽重を定めることには問題があるが,「きく」ということばが,啓示宗教,すなわち人類への神の語りかけに基づくキリスト教にとっての中核的用語であることはうなずける。






| | | コメント (0)

2008年3月20日 (木)

〈aspiration〉







「aspiration」

願心を育て誓願に引っぱられて生きる,これ以上の幸せがあるだろうか。


| | | コメント (0)

2008年3月19日 (水)

〈祈りの糧〉







「祈りの糧」

奥村一郎『祈り』(p52)



しかし,ここで一つの区別をする必要がある。「祈り」と「祈りの糧」ということである。「命」と「命の糧」とは別のものであるように,「祈り」と「祈りの糧」は同じものではない。体に命を与えるものはアニマ(霊魂)であるが,その「命の糧」となるものは,ふだんの食べ物である。そのように,祈りの命は愛,それも「神よりの愛」(ヨハネⅠ4・7)であるが,この祈りの命である愛が,わたしたちのうちに育てられていくためには「祈りの糧」が必要である。それは一口に言って,わたしたちの日常生活であり,その日々のできごとである。成功や失敗,幸不幸の喜怒哀楽によって織りなされる人生のうちに祈りは育てられ,また逆に,祈りは人間を育てていく。「生きる喜びや悲しみ,愛することも,憎むことも,わたしにとって祈りである」ということは,この意味,すなわち「祈りである」というよりも「祈りの糧である」と解されなくてはならない。さらに正確に言えば,「祈りの糧である」というより,「祈りの糧となる」,あるいはさらに,「祈りの糧とする」ということである。






| | | コメント (0)

2008年3月18日 (火)

〈責任〉







「責任」

V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』(pp159-160)



人間は責任を「問われたり」,責任を「逃れたり」します。こうしたことばには,責任を負うまいとする抵抗力が人間にあるという教訓が示されています。そして実際,責任というものには測り知れないところがあります。責任というものを直視すればするほど,その測り知れなさに気づくのです。そしてしまいには,一種のめまいを起こすほどです。人間の責任の本質に沈潜していくと,ぞっとします。人間の責任とは,おそろしいものであり,同時にまたすばらしいものでもあります。






| | | コメント (0)

2008年3月17日 (月)

〈渇望〉







「渇望」

渇望する自身の中に水源をみつけよう。


| | | コメント (0)

2008年3月16日 (日)

〈認識不能〉







「認識不能」

認識したどんな自分も,実物・等身大の自分からはみ出ている。


| | | コメント (0)

2008年3月15日 (土)

〈大事な事〉







「大事な事」

見渡せる自分の視野のほとんどのことは,かなりどうでもいい。
大事なことは,数少なくて,足下にある。


| | | コメント (0)

2008年3月14日 (金)

〈明日〉







「明日」

明日が無い。
かもしれないことに怯えない。

明日はある。
だろうことに甘んじない。



| | | コメント (0)

2008年3月13日 (木)

〈順はこれ菩提〉







「順はこれ菩提」

(『維摩経』)

順はこれ菩提なり。如に順ずるが故に。






| | | コメント (0)

2008年3月12日 (水)

〈どっつかえたところに身命をなげうつ〉







「どっつかえたところに身命をなげうつ」

岸沢惟安『正法眼蔵全講』「第1巻 弁道話」

それだから一人一人がみな眼蔵になって,眼蔵の参究をしなされ。研究はいかぬ,それは学問だ。眼蔵は学問ではない。参究して,実実に実行する。そのときに,どこがどっつかえるか。そのどっつかえたところに身命をなげうつのだ。おもてむきのわかった,わかったで済んでしまえば,眼蔵はほろびる。自分がわからなくなって,はじめて眼蔵に首を突っこみはじめたのだ。わかるうちは道中だ。わからなくなるのが,眼蔵のわかりはじめだ。耳で聞いた拝借物はやくにたたない。





| | | コメント (0)

2008年3月11日 (火)

〈主体性〉







「主体性」

いいわけも,手わるさもなし。


| | | コメント (0)

2008年3月10日 (月)

〈正味は覚触〉







「正味は覚触」

澤木興道著『禅談』より



三十年幾年坐禅をやったところで少しも人格と関係がない。自分というものと関係なしに悟ってをるのだから,そんな悟り方なら,吾々も子供の時分に幾つでも悟った。然し,そんなものは,謎かけと同じことで,又試験の答案と同じ,数学の宿題と同じことで何でもない。

要するに筋肉の構えからして人間が出来なければ駄目なんだ。筋肉の構えからなるのが詰り,常濟大師の言葉にある「覚触」ということである。身(からだ)でやることです。吾々は仏法を覚触するのです。






| | | コメント (0)

2008年3月 9日 (日)

〈自己否定〉







「自己否定」

(内山興正『観音経 十句観音経を味わう』(p176-77))

この際忘れてはならぬことは,この人間根性「自己否定」ということは,人間根性をむりして抹殺することではない。ただ神のモノサシによって素直に測られるということなのです。






| | | コメント (0)

2008年3月 8日 (土)

〈遊ぶ〉







「遊ぶ」

(宮浦信雄老師の言葉より)

どんな仕事であれ,そこに情熱を注いだときには思わぬ面白さ,やり甲斐が見つかるものです。そのときはもうあなたは観音さんとなって遊んでいるに違い有りません。


| | | コメント (0)

2008年3月 7日 (金)

〈打って出ろ〉







「打って出ろ」

(宮浦信雄老師の言葉より)

何かをするとき,その全てを自分で納得した後で,判断ずくでするような事ばかり,この世はうまくできていないのです。ましてや未熟でちっぽけな頭の自分を思うとき,この世界がそんなちっぽけな頭に納まる訳がありません。

鳥が空をとぶときは,空を知り尽くし果てを究めているわけではありません。もし空を知ろうと対象化したとたん,空からはみ出て死んでしまいます。しかし鳥はその空を自由自在に使いこなし飛んでいるではありませんか。


| | | コメント (0)

2008年3月 6日 (木)

〈ねらって生きる〉







「ねらって生きる」

(宮浦信雄老師の言葉より)

百不当−一本一本の×そのものがすでに○と同じ価値を含んでいる。


| | | コメント (0)

2008年3月 5日 (水)

〈思いの世界〉







「思いの世界」

思いの世界の思う以上の狭さ。


| | | コメント (0)

2008年3月 4日 (火)

〈一坐〉







「一坐」

沈黙は尊い。


| | | コメント (0)

2008年3月 3日 (月)

〈自分というものは〉







「自分というものは」

櫛谷宗則編『禅に聞け―沢木興道老師の言葉』(p176)



自分というものは自分をもちこたえてゆくことはできない。自分が自分を断念した時かえって宇宙とつづきの自分のみとなる。






| | | コメント (0)

2008年3月 2日 (日)

〈人間の胸算用ではない〉







「人間の胸算用ではない」

櫛谷宗則編『禅に聞け―沢木興道老師の言葉』(p200)



世の中の人は「艱難汝を玉にす」ぐらいのことしかわからない。しかし二祖大師は,雪の中に立ち臂を切ってまでして,達磨大師にしたごうたが,それでどんなうまいことをしたか。−結局,最後には法敵に讒(ざん)せられ殺されて。−人間の胸算用ではない。






| | | コメント (0)

2008年3月 1日 (土)

〈全てが糧〉







「全てが糧」

嬉しい自分も,悲しい自分も,楽しい自分も,悔しい自分も,眠たい自分も,ダメな自分も,イケてる自分も,どんな自分も坐禅や祈りの糧となる。


| | | コメント (0)

« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »