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2008年4月30日 (水)

〈大きくため息をつく〉







「大きくため息をつく」

大概のことはどうでもいいんじゃない?!
そろそろ抗うのも飽きてきたでしょう?!


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2008年4月29日 (火)

〈成果に価値を置かない〉







「成果に価値を置かない」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(p221)



最近,わたしたちのコミュニティの何人かのメンバーが,通りでホームレスの人たちと話をして彼らとの間に関係を作るという仕事をしています。こうした私心のない仕事には,町の中心を歩き回ること,物貰いをしていたり困っているように見える人なら誰でも一緒に坐って対話をする準備ができていること,が要求されます。友好的(フレンドリー)な接触を築くことは,とりたてて成果志向的でないという点で,「関与する仏教」のアプローチに典型的なものです。ホームレスの人々に良質の注意を注ぐことで,何かが変わる諸条件を作ろうと願っているのです。何が起こるのかをあらかじめ知る事はできませんが,そうした注意を提供することで,何かの利益が生まれることを願っているのです。物事をあまりにも強引に左右し支配しようとするのではなく,自然な仕方でしかるべきことが起こるだろうという信頼を持っていなければなりません。わたしたちが接触したことが,話相手になった人を通りへと押しやった破壊的行動のサイクルからその人を連れ出す最初のステッップになるということが起こるかもしれないのです。あるいは,通りでのその人の生活の質を少しかもしれませんが,良くするかもしれません。あるいは何も変わらないかもしれません。いずれにせよ,わたしたが価値を置かなければならないのは,接触それ自体なのであって,その成果であってはならないのです。






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2008年4月28日 (月)

〈グラウンディング(3)〉







「グラウンディング(3)」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp220-221)



古いトラウマを調べることは重要であり,そのことによって,それまで注意をそらせることへと人を逃げ込ませていた過去のドゥッカを正視することができるようになります。一方,仏教的アプローチはむしろ現在の経験に焦点を当てます。際限なく過去の経験に取り組むよりも,地に足がついた状態を育成する方がもっと有益である場合があります。グラウンディングはカタルシス的な表出の必要なしに古い緊張の解放をもたらすことに役立つのです。






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2008年4月27日 (日)

〈グラウンディング(2)〉







「グラウンディング(2)」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp220-221)



しかし,それは仏教的アプローチが感情を扱うことを避けているということではありません。ドゥッカに直面することは,それがどのような形にとったものであれ,強い感情を引き起こします。四聖諦の教えが示すところによれば,わたしたちは,習癖的な逃避のパターンと自己を作り出すことの中に陥ることなく,いさぎよく(cleanly)苦難に向かい合うべきなのです。身体に取りときには,バランスを見出す必要があります。






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2008年4月26日 (土)

〈グラウンディング(1)〉







「グラウンディング(1)」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(p220)



ですから,人は防御のための心的構造(それが「自己」とみなされるにいたるのですが)を作り上げるだけではなく,各人独特でその人の防御のパターンを如実に反映している身体的諸特徴をも作り上げるのです。精神分析家のウィルヘルム・ライヒのような西洋の理論家たちは,人間は痛みを伴う子ども時代の経験に対する反応として身体的鎧(「性格の鎧」とも言う)のシステムを築きあげるという説を提唱しました。人が身体的な緊張をほどくようなワークをしていると,古いトラウマの痛みが,癒しとカタルシスにつながるような仕方で,放出されることがあります。しかし,仏教的アプローチはライヒによって唱えられた方法よりももっと穏やかなワークのやりからを唱道しています。つまり,感情の解放を主にしたやりかたではなく,気づきと脱・同一視(disidentification)に基づくやり方です。






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2008年4月16日 (水)

〈恐れないで〉







「恐れないで」

恐れないで,自分の奥の奥底の思いや願いを大切にしよう。
大切していく行ないは,恐れを望みに変える。


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2008年4月 9日 (水)

〈来歴に依拠する〉







「来歴に依拠する」

兵藤一夫『唯識ということ―『唯識二十論』を読む』(pp14-15)



 また,日本の唯識思想の中心である興福寺に伝わる「手を打てば,鯉は餌と聞き,鳥は逃げ,女中は茶と聞く猿沢池」という句は,認識(知覚)がいかにその来歴に依拠しているかが示されています。「手をたたく」という同じ音を,鯉と鳥と女中はそれまでにそれぞれが経験してきたこと(来歴)に基づいて,餌を得ることや,危険や驚き,茶の催促というようにそれぞれ別なふうに認識することが実に分かりやすい事例で示されています。
 このように,唯識思想においては,客観的であると思われている知覚や認識がいかに認識主体に影響されているか,主観的であるかということに早くから気づいていたのです。






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2008年4月 8日 (火)

〈眩しくても〉







「眩しくても」

光を感じる方向に向き続けよう。


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2008年4月 7日 (月)

〈段々はっきりしてくる〉







「段々はっきりしてくる」

これまでの学びは,全部捨てなければならない。
これまでの学びは,たぶん,全部捨てられて行く。


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2008年4月 6日 (日)

〈「生きる価値のない生命」と見なしてその生きる権利を剥奪する権利はだれにもない〉







「「生きる価値のない生命」と見なしてその生きる権利を剥奪する権利はだれにもない」

V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』(pp110-111)



主な結論を大まかに振り返ってみましょう。とくに思い出されるのは,生きているとは,問われているということだということです。そして,生きる意味を問題にするのは間違っているということです。生きる意味はそのときどきに応答することにあるからです。ただ,人生の具体的な問いに対して,ことばで答えを出すことはできません。なにかをしてはじめて答えることができるということでした。そればかりではありません。まさに生きていくなかで,自分の全存在で答えなければならないのです。人生「という」問いは,ただいつも「自分の」人生に責任をもって応答することで答えることができるということでした。






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2008年4月 5日 (土)

〈よく運転する〉







「よく運転する」

ティク・ナット・ハン『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』(p39)



車を走らせる前に
私は知っている どこへ行くかを
車と私はひとつ
車が速く走れば 私も速く走る







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2008年4月 4日 (金)

〈怒りを毅然として迎える〉







「怒りを毅然として迎える」

ティク・ナット・ハン『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』(pp76-77)



息を吸って怒りがここにあると気づく
息を吐いて怒りは私だと気づく
息を吸って怒りは不快なものだと気づく
息を吐いて怒りはとおりすぎてゆくものだと気づく
息を吸って私はしずか
息を吐いてこの怒りを毅然として迎える







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2008年4月 3日 (木)

〈不快な感情にいたわりと注意をそそぐ〉







「不快な感情にいたわりと注意をそそぐ」

ティク・ナット・ハン『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』(p65)



私たちが不快な感情にいたわりと注意をそそぎ,非暴力の精神で接すれば,これを健全なエネルギーに変えて,自分を育てる力にすることができます。気づきの観察によって不快な感情はあなたを照らしだして,自己や社会を洞察し,理解してゆく力となりうるのです。







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2008年4月 2日 (水)

〈究極のリアリティに触れなければ〉







「究極のリアリティに触れなければ」

ティク・ナット・ハン著『生けるブッダ、生けるキリスト』(p174) )



真性のたゆまない実習を怠り,霊的に成熟しないまま信仰を続けていると,もうひとつ重大な危険が待ち受けています。ある日突然,不信という淵に突き落とされるのです。







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2008年4月 1日 (火)

〈実在のまっただなかに飛びこむ〉







「実在のまっただなかに飛びこむ」

ティク・ナット・ハン著『生けるブッダ、生けるキリスト』(p164) )



仏教の修行とは,この現象世界にさらに深く触れるために,無常,無我,空,そして相互共存(インタービーイング)をしずかに見つめて(観想),物事に関する観念や思いを捨て,実在のリアリティのまっただなかに飛びこんで,そこに溶け込んでゆく練習です。そこで「ものそのもの」に触れて,ものに関する観念や思いとは懸け離れた,真新しい現実の相に出会うのです。私たちが頭で作り上げた観念や思いは,誤った知覚作用(悪見)の結果なのです。







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