« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月27日 (火)

〈あすのことは,あす思い煩えばよい〉







「あすのことは,あす思い煩えばよい」

(マタイ6:31-34)



あなたがたは,「何を食べようか」,「何を飲もうか」,「何を着ようか」と思い煩ってはいけない。これらはすべて,異邦人がせつに求めるものである。あなたがたの天の父は,これらのものが皆,必要であることを知っておられる。まず,神の国とそのみ旨を行なう生活を求めなさい。そうすれば,これらのもの皆,加えて,あなたがたに与えられるであおる。だから,あすのことを思い煩ってはならない。あすのことは,あす思い煩えばよい。その日の苦労は,その日だけで十分である。



| | | コメント (0)

2008年5月26日 (月)

〈誰かの物語を聞くとき〉







「誰かの物語を聞くとき」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp227)



誰かの物語を聞くとき,自己の見解(self-view)を棚上げして,個人的な思惑にエネルギーを投入することをしないでいることができるなら,そこで言われていることをよりよく聞き取ることができます。それは自分の思っていることや意見をいかなるときでも分かち合うべきではないということではありません。しかし,それをおこなっているときにははっきりしたその自覚がなければなりません。個人的な観点を棚上げするというのは容易なことではありません。仏教的訓練において一つの重要な焦点となっているのは,自己材料が他者との出会いの中にでしゃばってくるやり方についてより鋭敏に気づけるようになり,それを手放すことにより熟練していくことなのです。どこかよそからやってきた心配事やアイデアで自分が一杯になっている状態にあるなら,うまく聞くことなどとうていできません。






| | | コメント (0)

2008年5月11日 (日)

〈うまいことするな〉







「うまいことするな」

櫛谷宗則編『澤木興道老師のことば』(pp66-67)



サトリとは損すること。
マヨイとは得すること。

なるたけ貧乏せい,
うまいことするな。
縁の下の力持ちをせい。





| | | コメント (0)

2008年5月10日 (土)

〈罪のゆるし〉







「罪のゆるし」

(ルカ17:3-4-8)



もしあなたの兄弟が罪を犯したならば,彼を戒めなさい。そして,悔い改めたならば,ゆるしなさい。また,もし彼があなたに,一日に七度も罪を犯し,そして七度もあなたのところにもどって来て,そのつど『悔い改めます』という言うならば,彼をゆるしなさい。



| | | コメント (0)

2008年5月 9日 (金)

〈驚いてはならない〉







「驚いてはならない」

(ヨハネ3:5-8))



よくよくあなたに言っておく。
人は水と『霊』によって生まれなければ,
神の国に入ることはできない。
肉から生まれた者は肉であり,
『霊』から生まれた者は霊である。
『あなたがたは上から生まれなければならない』と,
あなたに言ったが,
驚いてはならない。
風は思いのまま吹く。
あなたはその音を聞くが,
それがどこから来て,
どこに行くかをしらない。
『霊』から生まれた者も皆,それと同じである。



| | | コメント (0)

2008年5月 8日 (木)

〈菩薩の誓願〉







「菩薩の誓願」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(p261)



衆生は無辺である,わたしはかれらすべてを救うと誓う
煩悩は無尽である,わたしはそれらすべてを変容させると誓う
ダルマの教えは無量である,わたしはそれらすべてを習得すると誓う
仏の道は無限である,わたしはそれを完全に成就させると誓う



菩薩の誓願を引き受けることは,修行者の願心を言葉にすることであり,それを確約する行為なのです。誓願は文字通りの意味でそれを実現することができるということを意図しているのではありません。誓願とは人の心の中にすでに胚胎している,深いところで感じられる切望に触れ,悟りに基づく行為を通してその切望を表現するための媒介を作ることを助けるためのものなのです。仏教の訓練は信心と修行へのコミットメントを育てる諸条件を作り出します。そうした諸条件から望ましい結果が生じるはずであると確信されているのです。







| | | コメント (0)

2008年5月 7日 (水)

〈インスパイアード〉







「インスパイアード」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp257-258)



実際のところ,自力は硬貨の一方の面でしかなのです。自力的な訓練は,わたしたちの前に現われてくるさまざまな機会に対してもっとオープンで受容的になれるような,基盤を準備し条件を整えてくれるかもしれません。しかし,自己への没頭状態(self-absorption)から抜け出るためには,自分自身を超えた何かによって触れられることが可能であるようにしておかなければなりません。つまり,他者によって手を差し伸べられ,鼓舞される(インスパイアード)ということです。これは「他力(other-power)」と呼ばれている道です。他力の道においては,人は自分の努力によって変化を獲得するのだとは考えられていません。世界の中に顕現した仏の慈悲によって捕まえられたのだとされます。あるいは,命よって抱きとめられたとも言えるでしょう。






| | | コメント (0)

2008年5月 6日 (火)

〈interbeing−第七戒〉








「interbeing−第七戒」

ティク・ナット・ハン著『仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす』(pp136-37))



戸惑いの内,自己を見失ってはならない。体と心の落ち着きを取り戻し,心の集中を実践し,心の統一を発達させ,理解を発達させることを学びなさい。






| | | コメント (0)

2008年5月 5日 (月)

〈interbeing−第四戒〉








「interbeing−第四戒」

ティク・ナット・ハン著『仏の教え ビーイング・ピース―ほほえみが人を生かす』(pp132-133))



苦しみとつながりをもつことを避けてはならない。あるいは,苦しみの前で目をつぶってはならない。世界において,生命のあるものが負っている苦しみの存在を,はっきり知ることを逸してはならない。直接の触れ合い,訪問,映像,音などを通して,苦しんでいるひとたちと共にいる方法を見いだすために,最善をつくしなさい。こうした方法によって,世界の苦しみの現実について,みずからとほかの人たちを目覚めさせなさい。






| | | コメント (0)

2008年5月 4日 (日)

〈表象を捨てる〉







「表象を捨てる」

ティク・ナット・ハン著『生けるブッダ、生けるキリスト』(p144) )



哲学者のルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは,「話をするのが不可能なことについては,人は沈黙せねばならない」と言いました。しかし私たちはそれを語ることはできないけれど,体験的に知ることは可能です。不生,不滅,無始,無終ということを,それがまぎれもない真実の相(すがた:リアリティそのもの)であるために,体験的に知ることができるのです。これを体験的に知る方法は,観念や表象をとおしてすべてを知覚する習慣を捨てることです。







| | | コメント (0)

2008年5月 3日 (土)

〈人生を意味のあるものにできるのは〉







「人生を意味のあるものにできるのは」

V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』(pp72-73)



人生を意味のあるものにできるのは,第一に,なにかを行なうこと,活動したり創造したりすること,自分の仕事を実現することによってです。第二に,なにかを体験すること,自然,芸術,人間を愛することによっても意味を実現できます。第三に,第一の方向でも第二の方向でも人生を価値あるものにする可能性がなくても,まだ生きる意味を見いだすことができます。自分の可能性が制約されているということが,どうしようもない運命であり,避けられず逃げられない事実であっても,その事実に対してどんな態度をとるか,その事実にどう適応し,その事実に対してどうふるまうか,その運命を自分に課せられた「十字架」としてどう引き受けるかに,生きる意味を見いだすことができるのです。






| | | コメント (0)

2008年5月 2日 (金)

〈だから私たちは病む〉







「だから私たちは病む」

ティク・ナット・ハン『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』(p134)



自然は私たちの母親です。この母なる自然から切り離されるから,私たちは病むのです。







| | | コメント (0)

2008年5月 1日 (木)

〈良質の注意を注ぐ〉







「グラウンディング(3)」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(p223)



出会いは外へと向かう集中です。それが目指すのは,出会う人に良質の注意を注ぐことです。グラウンディングだけではそれを成就することができません。グラウンディングは人との相互交流における揺るぎなさを与えてくれますが,単に地に足がついているだけでは,わたしたちの注意を身体感覚に過剰にとらわれて,他の人の言うことを聞き取ったり,状況を経験する上で十分でないことがあります。人の言うことに耳を傾けるという仕事を本当におこなうことができるように,地に足がついているという経験を前面に出すのではなく,むしろ背景へと沈めることが必要なのです。






| | | コメント (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »