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2008年6月20日 (金)

〈すべてが有時〉







「すべてが有時」

内山興正『正法眼蔵―有時・諸悪莫作を味わう』(pp82-83)



「葉県の帰省禅師は,臨済の法孫なり,首山の嫡嗣なり。あるとき大衆にしめしていはく,有時意到句不到。有時句到意不到。有時意句両倶到。有時意句倶不到」


もっと解りやすい例を引くと,最初はコップも有時だ,時計も有時だ,メガネも有時だという事物的事態的に並べた。それがメガネをかけるのも有時だというふうにメガネをかけるかどうかという意志的なものが入ってくる。さらにメガネをかけたほうが男っぷりが上る,いや下がる,というふうに価値判断が加わる。そしてここでは,どんなメガネを,どのようにかければ,男っぷりがどこまで上るか上らないかといった,出来案配の話になる。しかしそれがすべて「有時」だという。

「意句ともに有時なり。到不到ともに有時なり」−いずれにせよ,有時というかぎり,生命実物の発言そのものなのだから,できがよかったら合格,よくなかったから不合格といった,合格不合格の話ではなくなる。






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2008年6月19日 (木)

〈尽有尽界時々の地盤で〉







「尽有尽界時々の地盤で」

内山興正『正法眼蔵―有時・諸悪莫作を味わう』(p68)



まずこの「有時」巻の冒頭に,「有時高高峰頂立。有時深深海底行。有時三頭八臂。有時丈六八尺。有時(手へん+主)杖払子。有時露(手へん+主)灯籠,有時張三李四,有時大地虚空」とあるように,いわば事物,事態を八つ並べられたのである。そしてこういういわば,事物,事態はすべて有時であることをまずいわれた。

それに対してここの先の二句「有時教伊揚眉瞬目。有時不教伊揚眉瞬目」という教伊,不教伊は,いわば人間の意志の働きである。しかしそういう意志的働きも有時であることが,ここにいわれる。

あとの二句「有時教伊揚眉瞬目者是。有時教伊揚眉瞬目者不是」という是,不是は,いわは人間的価値判断です。そういう価値判断も,しかし有時に他ならないことを,ここでいわれる。

その点とにかく冒頭の話からはじまってここまで道元禅師がいわれてきたことは,有時とは尽尽界,々ということだった。そしていまここでいわれることは,「せしめる,せしめない」「よい,悪い」という,そうした人間的意志や価値判断さえも,尽有尽界時々の地盤で働かすことが大切だということです。決して考えの先っぽを追求していくことが大切なのではなく,かえって時々刻々,尽有尽界の生命実物を見失わず,それに立ち帰って働くことが大切ということです。






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2008年6月18日 (水)

〈百不当〉







「百不当」

百不当−一本一本の×そのものがすでに○と同じ価値を含んでいる。
その価値とは,体認で得られる「気づき=探究的問い」である。



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2008年6月17日 (火)

〈身体が教えてくる〉







「身体が教えてくる」

自身の振る舞いの不自然さ・不合理さを身体が教えてくれている。


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2008年6月16日 (月)

〈傾聴〉







「傾聴」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp223)



人の話に耳を傾ける(傾聴)というプロセスには心と想像力が要求されます。しかし,身体的経験を通しての聞き取りもおこないます。誰かが自分の人生の状況について話す必要があるとき,地に足のついたあり方でその人と一緒にいることができることが望ましいのです。しっかりと地に根づいた状態で坐り,身体の中央部で起こっている経験に注意を向けます。その人が経験している緊張や抵抗がそのようなものであれ,それに対してオープンでいることができるなら,その人が今置かれている状況にいるということがどういうことであるのかをもっと深いレベルで知ることができます。わたしたちは,相手の感情を感受し,そこで起きているリアクションに気づくことができる,いわば敏感な容器になるのです。






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2008年6月15日 (日)

〈あるがままの姿で在る〉







「あるがままの姿で在る」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp227)



仏教ですべての物が空であるというときには,すべての物があるがままの姿で在るということを意味しているのです。それらの物はわたしたちについて何かを示すしるしとしてそこにあるのではないのです。それらは非自己なのです。すべての物はダルマであり,ルーパ(「色」)ではないのです。






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2008年6月14日 (土)

〈知性を使うことの方がはるかに慣れ親しんでいる〉







「知性を使うことの方がはるかに慣れ親しんでいる」

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(pp215-216)



手と足で注意深く「実際に見る」ことができるよう訓練することが大切です。というのは,実際に接触を感じ取るのではなく,自分が接触していることを単に頭で想像する方がはるかに簡単だからです。ですから,具体的な身体感覚ではなく,知的に知っていることを元にして知覚をおこなうことがあるのです。






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2008年6月13日 (金)

〈良質の注意を注ぐ〉







「良質の注意を注ぐ」

大村はま著『新編 教えるということ』(pp156-157)



それは「仏様がある時,道ばたに立っていらっしゃると,一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は,そのぬかるみにはまってしまって,男は懸命に引くけれども,車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても,どうしても車は抜けない。その時,仏様は,しばらく男のようすを見ていらしたが,ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間,車はすっとぬかるみから抜けて,からからと男は引いていってしまった」という話です。「こういうのが一級の教師なんだ。男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して,ついに引き得たという自信と喜びとで,その車を引いていったのだ」こういうふうに(注:奥田正造先生は)おっしゃいました。そして,「生徒に慕われているということは,たいへん結構なことだ。しかし,まあいいところ,二流か三流だな」と言って,私の顔を見て,にっこりなさいました。私は考えさせられました。日がたつにつれ,年がたつにつれて,深い感動となりました。そうして,もしその仏様のお力によってその車がひき抜けたことを男が知ったら,男は仏様にひざまずいて感謝したでしょう。けれども,それでは男の一人で生きて行く力,生きぬく力は,何分の一かに減っただろうと思いました。仏様のお力によってそこを生きぬけることができたという喜びはありますけれども,それも幸福な思いではありますけれど,生涯一人で生きていく時の自信に満ちた,真の強さ,それにははるかに及ばなかっただろうと思う時,私は(注:奥田正造)先生のおっしゃった意味が深く深く考えられるのです。






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