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2008年12月10日 (水)

〈私〉







「私」

内山興正著『大空が語りかける−興正法句詩抄』p38)


過去の失敗や罪業を数えるとき
私は満身創痍で
疲れ果てた脚をひきずりながら
とぼとぼと馬小屋に向かう
老いたる駑馬である
いったん
未来の誓願に向かうとき
忽ち私はまったく無疵の
瑞瑞しい姿となって
颯爽と蹄音響かせて
門出してゆく駻馬である
この過去から未来へ変身する
現在の一点において
いま私は生きている




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コメント

会社の休憩時間に読ませてもらってます。
”現在の一点においていま私は生きている”
私の現在の一点は喘ぎ、不満において、命を消耗させている事からまた天地いっぱいの自己にと、あせる自我であります。

投稿: ku | 2008年12月11日 (木) 10:29

>kuさん

こんにちは,HIROです。
天地いっぱいの自己に…そうですね。

私は,自分の立ち位置が?の時も!の時も,
内山老師の次の言葉を大切に考えています。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
『自己-宗派でない宗教』(p246-249)

してみれば四聖諦にしても,「苦のもとは欲望である」,それゆえ欲望を滅すれば,寂滅の楽が得られる」などといういいかたをすればアヤマリです。
 「寂滅の楽を得ようとする,そのことが欲望ではないか」と,かって発したわたしの疑問は,けっしてアヤマッテはいませんでした。寂滅の楽をえんとする欲望がそのまま,かえって修行者をして,抜くべからざるディレンマに追いこむだけですから。
-真実の佛法のおしえは,そんなことではありません。
 「欲から苦が生ずる私がある。」
-まず苦,集の二諦は,かくおしえます。これは流転輪廻する自分のすがたのことをいうのです。
 しかし同時に「これとまったくちがった自己」があります。それはつぎの滅,道の二諦がおしえる。
 「道をあゆむなかには,寂滅している自己がある。」
ということです。
 四聖諦はただこの二つの自己の道をならべてみせるだけです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

で,「私」はどうする?
と,様々なことから問いかけられているのだけれど,
その答えは,自分の中を探ってもないんですよね…。
あ…「心の中を探らなくても。」に繋がりました。

投稿: HIRO | 2008年12月11日 (木) 12:13

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