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2009年1月27日 (火)

一。

枠付けない。

「四運競一景」−典座教訓

謂ゆる大心とは,其の心を大山にし,其の心を大海にし,偏することなく党すること無きの心なり。両を提(ひつさ)げて軽しと為さず,鈞を扛げて重しとすべからず。春声に引かれて,春沢に遊ず。秋色を見ると雖も,更に秋心無し。四運を一景に競い,銖両を一目に視る。是の一節に於て大の字を書すべし,大の字を知るべし,大の字を学すべし。

いわゆる大心とは,その心を大山のようにし,その心を大海のように持って,一方にからより附かない心である。一両の重さのものを持ち上げても軽いと思わず,一鈞の重さのものをさし上げても思いと思ってはならない。春を告げる小鳥の声を聞いても,春のめぐみに浮かれて遊ばず,秋の色づく紅葉を見ても,もの寂(わび)しいおもいをいだかない。春夏秋冬のうつりゆきを,ただ一景のうちによみとり,一銖の目方も,一両の目方も,大きな目から一目に見るのである。この一点において,大の字を書くがよい。大の字を知るがよい。大の字を学ぶがよい。

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2009年1月21日 (水)

反芻する。

よくよく噛んで食べる(ruminate/reflect)。

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2009年1月19日 (月)

一。

収まりどころを探さない。

どんな道でも平坦な道と同じように歩く。

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2009年1月12日 (月)

人身受け難し。

引き出しの中に閉まってあった自分が誕生した時の母子手帳と受戒した時の血脈を並べてみた。

人身得ること難し
仏法値うこと希なり
今我等宿善の助くるに依りて
已に受け難き人身を受けたるのみに非ず
遭い難き仏法に値い奉れり
生死の中の善生
最勝の生なるべし
最勝の善身を徒にして
露命を無常の風に任すること勿れ
修証義

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2009年1月 7日 (水)

今年の参究課題。

「比丘口如竈(比丘の口は竈の如し)」。

『典座教訓』より。


●比丘口如竈

「況や復た道芽を長じ,聖胎を養ふの事,醍醐とフ菜と,一如にして二如無きをや。比丘の口竈(かまど)の如しの先言有り。知らずんばあるべからず。」

(まして更に,すぐれた道心の芽を育て,佛となるべき種子を養うことは,醍醐もフ菜も全く同じ一つであって,二つではないのである。「比丘の口はかまどのようなものである」という古人のことばがある。じっくり思いみるべきである。)


<岸沢惟安著『典座教訓講話』から引用(p186)>

 その醍醐味とフ菜味と一味にして変わったことのないことを,佛のお弟子の迦旃延(かせんねん)というお方が,「比丘の口かまどのごとし」と仰っしゃっている。かまどには栴檀もたくぞよ。いばらもたくぞよ。かまどは栴檀をたいてもよろこばず,いばらをいたてもはき出しはせぬ。栴檀ともおもわず,いばらともおもわぬ。比丘の口が丁度このかまどのようで,醍醐味を入れても頓着せず,フ菜羮を入れもて何とも思はぬ。フ菜羮。よしよし。醍醐味。よしよし。いづれもあとをとどめない。すぐに浄化して道芽を長じ聖胎をやしなう。フ菜を存せず,醍醐を見ない。迦旃延比丘がそのことを比丘の口かまどのごとしと示されたのだ。これはな。育王山の典座和尚が(彳+扁)界不會藏といわれたのとおなじことだ。一二三四五といわれたのとおなじことだ。比丘の口とは両親がうんで下された口のみならず,尽十方界を口とす。尽十方界が口だから,そのなかにはフ菜羮もある。頭乳羮もある。仏様がおれば泥棒もおる。人命救護者で褒賞されるものがあれば,人殺しをして刑務所入りをするものも居る。生佛一如,凡聖同居だ。この世界には佛のみ入れて,人殺しを入れぬと言えば,人殺しはどこにおくのだ。毒蟲はおかぬと言えば,へびやまむしはどこにおくのだ。えびもくぢらもともに尽十方界をなして,みな実相を現成している。だからどうすることも出来ないのだ。比丘の口はかまどのごとしの先言あり。昔の人がいわれた。(彳+扁)界不會藏。かくすところなし。そういう迦旃延比丘の言葉があるが,よく心えておきなされよというのだ。この言葉は,頭乳羮とフ菜羮と一如にして,二如なしという意味だぞよ。

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