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2009年3月28日 (土)

罪意識と懺悔は違う。

内山興正著『禅の心悟りのうた-証道歌を味わう』(1976年)から。
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 二人のお坊さんが淫と殺とを犯して,お釈迦さまの弟子で持律第一の優波離尊者(ウパーリ)のところへ行き,これこれしかじかと懺悔した。優波離尊者は,その淫の罪はこうだ,殺の罪はこうだとばかりに,諄々と説き明して「我れ説の如く解説す」と言った。
 そこへ維摩大士が現われて,「優波離よ,お前の戒律は罪を深くするためにあるのか」とたしなめて,懺悔してアタマを手放しにさえすれば,あらゆる罪は立ちどころに消えるということを言ってきかせた。

 つまり,優波離のしたことは,検事が罪状を告白した罪人に「お前の罪は刑法第何条何項により懲役何年何ヶ月に相当する」と言ったのと同じ。これでは,その説き明すところによって,かえって罪意識だけが目覚めさせられ,ますますたいへんなことになってしまう。そこで,維摩は,「懺悔してアタマを手放しにさえすれば,あらゆる罪は立ちどころに消える」と言ったわけだ。

 『観普賢菩薩行法経』というお経にも,「人もし懺悔せんと欲せば,端坐して実相を思え。衆罪は霜露の如く,慧日能く消除す」=「もし懺悔しようと思えば坐禅しろ,するとまるで太陽が昇ってくれば霜や露が消え去るように,罪は消えてしまう」とある。

 罪意識と懺悔とは分けて考えねばならないと思う。自分が「悪うございました」というのは罪意識であり懺悔ではない。罪意識というのはどういうところで罪を感じるか,その人その人により,あるいは時と場合によって異なってくる。人間の感じる罪意識などというものは,どうせ当てにならない,取るに足らないものである。

 ほんとうの意味の懺悔とは,そんなあやふやな,中途半端な罪意識であってはならない。「私は悪うございました」というのでは,いったい何を規準にしているのか。要するに「今の私の考え」を物差しにして行っているのでしかない。自分のアタマで悪うございましたと言っても駄目で,大事なことは,そのアタマの物差しを投げ出すことなのだ。

 ほんとうの懺悔とは,「人もし懺悔せんと欲せば,端坐して実相を思え」だけ。つまり,坐禅してアタマを手放しにするという一事である。そうすれば,「悪うございました」などと言わなくても,「衆罪は霜露の如く,慧日能く消除す」で,絶対の光に照らされて罪は消える。
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2009年3月27日 (金)

手放しのみ。

内山興正著『正法眼蔵 有時・諸悪莫作を味わう』1984年,p162。

「諸悪なきにあらず,莫作なるのみなり。諸悪あるにあらず,莫作なるのみなり。諸悪は空にあらず莫作なり,諸悪は空にあらず莫作なり,諸悪は莫作にあらず,莫作なるのみなり」

 悪というものは有るのでもない無いのでもない莫作ある,というところから諸悪は莫作にあらず,莫作なるのみなりともってくる。いかにも道元禅師らしい格調の高い文章で,しかも親切に行き届いている。

 あるとかないとかは,要するに観察的な話で,いま,自己にとって,自己は生命実物なのだ。実物とは,いま自分がいかにあるか,ただそれだけです。そのときはただアタマ手放しのみ。諸悪という価値判断を否定するのではなく,ただ手放しのみという莫作が大切だ。



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2009年3月18日 (水)

どこにおくのだ。

岸沢惟安著『典座教訓講話』(p186)より。
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比丘の口とは両親がうんで下された口のみならず,尽十方界を口とす。

尽十方界が口だから,そのなかにはフ菜羮もある。頭乳羮もある。

仏様がおれば泥棒もおる。

人命救護者で褒賞されるものがあれば,人殺しをして刑務所入りをするものも居る。

生佛一如,凡聖同居だ。

この世界には佛のみ入れて,人殺しを入れぬと言えば,人殺しはどこにおくのだ。

毒蟲はおかぬと言えば,へびやまむしはどこにおくのだ。

えびもくぢらもともに尽十方界をなして,みな実相を現成している。

だからどうすることも出来ないのだ。

比丘の口はかまどのごとしの先言あり。昔の人がいわれた。(彳+扁)界不會藏。かくすところなし。そういう迦旃延比丘の言葉があるが,よく心えておきなされよというのだ。
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2009年3月10日 (火)

素晴らしかったんだ僕の旅。

父「苦労かけたな」
マルコ「ううん、素晴らしかったんだ僕の旅。お父さんが行かせて くれたお陰で」

『母をたずねて三千里』最終回のシーンより。

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2009年3月 8日 (日)

ひととき,喧噪を離れて…。

自分のなかの「静」に気づく。
200903081245000 200903081248000
広島・縮景園にて…。

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2009年3月 6日 (金)

薄々気付く。

このイライラは過去の経験を引き合いに出している。

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2009年3月 5日 (木)

忘れがち。

まず問うべきは,自分自身だ。

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2009年3月 2日 (月)

「みんな自分の古い考えを後生大事に握っているから駄目なのだ」

「みんな自分の古い考えを後生大事に握っているから駄目なのだ。心というのは念虜知覚,いろんな判断をする分別心のことだと思いこんでいて「心は草木だ」というと信じない。仏というのは相好光明に輝いているものだと思っていて「仏は瓦礫だ」といえばびっくりする。でもよく振り返ってみれば,そういう自分の考えというものは父が教えてくれたものでもないし母が教えてくれたわけでもない。ただいつの間にか小耳にはさんだことから,いつの間にか自分のうちにそう出来上ってしまっているだけだ。そしたらそんないい加減な思い込みは捨てて,これこそ仏祖決定の説なのだから心を草木と知り,瓦礫を仏と信じる。そうやって旧見を手放し改めていくことによって,初めて道を得ることができるということです。」−内山興正『正法眼蔵身心学道を味わう』(p27)


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