罪意識と懺悔は違う。
内山興正著『禅の心悟りのうた-証道歌を味わう』(1976年)から。
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二人のお坊さんが淫と殺とを犯して,お釈迦さまの弟子で持律第一の優波離尊者(ウパーリ)のところへ行き,これこれしかじかと懺悔した。優波離尊者は,その淫の罪はこうだ,殺の罪はこうだとばかりに,諄々と説き明して「我れ説の如く解説す」と言った。
そこへ維摩大士が現われて,「優波離よ,お前の戒律は罪を深くするためにあるのか」とたしなめて,懺悔してアタマを手放しにさえすれば,あらゆる罪は立ちどころに消えるということを言ってきかせた。
つまり,優波離のしたことは,検事が罪状を告白した罪人に「お前の罪は刑法第何条何項により懲役何年何ヶ月に相当する」と言ったのと同じ。これでは,その説き明すところによって,かえって罪意識だけが目覚めさせられ,ますますたいへんなことになってしまう。そこで,維摩は,「懺悔してアタマを手放しにさえすれば,あらゆる罪は立ちどころに消える」と言ったわけだ。
『観普賢菩薩行法経』というお経にも,「人もし懺悔せんと欲せば,端坐して実相を思え。衆罪は霜露の如く,慧日能く消除す」=「もし懺悔しようと思えば坐禅しろ,するとまるで太陽が昇ってくれば霜や露が消え去るように,罪は消えてしまう」とある。
罪意識と懺悔とは分けて考えねばならないと思う。自分が「悪うございました」というのは罪意識であり懺悔ではない。罪意識というのはどういうところで罪を感じるか,その人その人により,あるいは時と場合によって異なってくる。人間の感じる罪意識などというものは,どうせ当てにならない,取るに足らないものである。
ほんとうの意味の懺悔とは,そんなあやふやな,中途半端な罪意識であってはならない。「私は悪うございました」というのでは,いったい何を規準にしているのか。要するに「今の私の考え」を物差しにして行っているのでしかない。自分のアタマで悪うございましたと言っても駄目で,大事なことは,そのアタマの物差しを投げ出すことなのだ。
ほんとうの懺悔とは,「人もし懺悔せんと欲せば,端坐して実相を思え」だけ。つまり,坐禅してアタマを手放しにするという一事である。そうすれば,「悪うございました」などと言わなくても,「衆罪は霜露の如く,慧日能く消除す」で,絶対の光に照らされて罪は消える。
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