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2009年7月28日 (火)

「良質の注意を向ける」。

キャロライン・ブレージャー著,藤田一照訳『自己牢獄を超えて―仏教心理学入門』(p223)より。

 出会いは外へと向かう集中です。それが目指すのは,出会う人に良質の注意を注ぐことです。グラウンディングだけではそれを成就することができません。グラウンディングは人との相互交流における揺るぎなさを与えてくれますが,単に地に足がついているだけでは,わたしたちの注意が身体感覚に過剰にとらわれて,他の人の言うことを聞き取ったり,状況を経験する上で十分でないことがあり得ます。人の言うことに耳を傾けるという仕事を本当におこなうことができるように,地に足がついているという経験を前面に出すのではなく,むしろ背景へと沈めることが必要なのです。

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2009年7月26日 (日)

唯識−抜き書き。

上田義文著『唯識思想入門』 (1964年)より。

●27頁〜31頁


次に弥勒や世親のpratibhāsaの用語例を若干あげて説明を加えることにしよう。



(1)無なるに顕現する喩は幻と夢等なりと。例えば幻,夢等は得知せられるものなれども[実には]有るに非る如く,法の顕現も実には無のみ。
(2)諸方は無であるのに得知せられること恰も幻等の如くであると知らるべきである。
(3)例えば幻にて造られたる象等は顕現せる(pratibhāsa)如くには実に無くして而も見ゆる(pratibhāsa)如く,虚妄分別も無なるに顕現せるものなり。
(4)上来虚妄分別は顕現するも[実には]有るに非ることを説き畢れり。

(略)

次に(3)と(4)とは,このartha(境)を見る虚妄分別が無であることと,それが得知せられることを述べている。虚妄分別はabhūtaparikalpaであってvikalpaとも呼ばれ,vijñāna(心所を伴ったもの)を意味する。この虚妄分別が無であるのに「顕現する」即ち「得知せられる」のである。識は元来得知するもの(the seer)である。それなのに識が得知せられるにも拘らず,その諸法は実在ではなく,それは識にほかならないからである。識が得知せられる(to be seen)というのは,識というものが得知せられるという意味ではなく,識が諸法として得知せられるという意味である。換言すれば,それは,得知せられている諸法が識にほかならないということである。ちょうど人間が幻の象や馬を見るが,それらは実在の象や馬ではなくて幻である,そのとき人間は幻によって現れた象や馬の形を見るのであって,幻そのものを見るのでない如くである。

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2009年7月25日 (土)

唯識−抜き書き。

上田義文著『唯識思想入門』 (1964年)より。

●24頁

こういう安慧のpariṇāmaの解釈は,pariṇāmaが識を意味するという世親の見解と一致する。識は刹那滅であり,刹那毎に生ずるが,必ずそれは前の刹那の識と全く同一であることはできない。刻々に変化してやまないのが識の流れである。現在の刹那の識は必ず前の刹那の識と異なっている。vijñānapariṇāma(変化の態における識)は識の具体的な姿なのである。従って単に「vijñānaにおいて我・法が仮説せられる」といっても「vijñānapariṇāmaにおいて我・法が仮説せられる」といっても,それらは結局同じことである。ālayavijñanaとかkliṣṭmanasとかviṣayasya vijñaptiとかはみなvijñānaのちがいであるが,それらが時間につれて異なるのがpariṇāmaである。識として存在するのは必ず現在一刹那であり,刹那をすぎれば滅する。ものを識るという作用をするのは現在刹那であるから,いろいろな識の相違は具体的には前後の識にまたがって成立する。かくして安慧の解釈ならばpariṇāmaが識をさしているということも理解し得られる。

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2009年7月24日 (金)

唯識−抜き書き。

上田義文著『唯識思想入門』 (1964年)より。

●15頁

護法は識を「能変」と解し,転変(pariṇāma)を識の最も基本の性質とした。そしてvijānāti(縁ずる)というはたらきも,この転変の上に初めて成立し得るものと考えた。換言すれば,識はvijānāti(識る)ためにはまず転変しなければならないとした。原始仏教以来伝承されていたvijānātīti vijñānam(識るが故に識である)という識の概念は,護法に至って根本的な変更を加えられたと言わなければならない。

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2009年7月11日 (土)

試練と脱出の道。

「あなたがたを襲った試練は,何一つとして人間に耐えられないようなものではありませんでした。神は信頼に値する方です。耐えられないような試練にあなたがたを遭わせるようなことはなさらず,むしろ,耐えることができるように,試練とともに抜け出る道をも用意してくださるのです。」(コリント第一10:13)

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2009年7月10日 (金)

懺悔。

学びの条件。

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2009年7月 5日 (日)

わからなくなるのが,わかりはじめ。

岸沢惟安『正法眼蔵全講』第1巻(弁道話)より。

「それだから一人一人がみな眼蔵になって,眼蔵の参究をしなされ。研究はいかぬ,それは学問だ。眼蔵は学問ではない。参究して,実実に実行する。そのときに,どこがどっつかえるか。眼蔵の御文と,自分のしているところと,どこがどっつかえるか。そのどっつかえたところに身命をなげうつのだ。おもてむきのわかった,わかったで済んでしまえば,眼蔵はほろびる。自分がわからなくなって,はじめて眼蔵に首を突っこみはじめたのだ。わかるうちは道中だ。わからなくなるのが,眼蔵のわかりはじめだ。耳で聞いた拝借物はやくにたたない。」

−迷いに迷う必要はないし,ものわかりのよいフリをする必要もないのだなぁ。


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