« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

2009年12月31日 (木)

生きる。

ハーマン・ウォーク『ユダヤ教を語る』(pp206-207)より。

ユダヤ教は,服喪を決められた期間,しきたりに応じた方法に限ることにおいては厳密である。度を過ぎた悲しみは神に対する信頼の不足と取られる。われわれの信仰は,死のもたらした破壊は放っておけば修復されるのが自然であり,望ましいととらえている。肉親に死なれた後もその前と変わらないという人はいないが,服喪の期間が過ぎれば,生活を再開し,生そのもののために悲しみの残りを抑えるものとされる。敬虔な服喪者が引き裂いた上衣は,縫い直してまた着ることができる。印は残るが,生活は再び始められる。


| | | コメント (0)

2009年12月21日 (月)

一炷(チュウ)坐って…(4)。

・「覚触」とは能力,定位する能力の現れだ。

・呼吸していることによって,自分の身体の動的な状態が分かる(呼吸が自分の身体の動的状態を教えてくれている)。

・考え事モードに向かっているときは,鳩尾や首やら肩やら,どこかが硬くなっている→手放すとは,心理的な思考操作的なことではなくて,こういう身体的な状態(=脱定位の状態)に気づく(自覚的に・無自覚的に)ことによって,定位した状態に身体自らが戻ろう(?)とすること。

・坐りたいから坐る,坐らざるを得ないから坐る,坐らなければならないから坐る→要は,坐るといことを実物でやるといううシンプルなことだ。

※覚触について。
内山興正老師『生命の実物』より。

−−−−−−−−−−−−−−−−

 さてつぎに,このような坐禅をしている場合の内部体験の実際を,できるだけこまかに分析記述してみましょう。まず一本のZZ′の線をひき,これを「まさしく坐禅の姿勢を守っていること」といたします。(第9図参照)われわれが坐禅する場合には「坐禅するということ,ZZ′」がいまのわれわれの生命の実物であるべきですから,このZZ′の線をぜひとも守らなければなりません。ところがさきにいいましたように,われわれ人間が坐るということは,石がそこに置かれてあるのとはちがい,固定しているわけではありませんから,ともするとこの線から外れがちです。あるいは思いが浮かんだり,あるいは居眠りがでてきたりしてしまいます。

 たとえばZ-Z′の線から外れて,aという思いが浮かぶとしましょう。もしこのaという思いを土台としてa′,a″などと思いをつづければ,もはや考え事になってしまいます。自分の仕事のことが思い浮かんで,つぎにはその仕事の予定だとか,やりくりだとかの思いをつづければ,これは明らかに仕事についての考え事をしているのでしかありません。そこで思いを手放しにして,骨組と筋肉によって,坐禅の姿ZZ′を覚触(覚めて実物)し,生命の実物にかえります。この覚触を矢印→で表わします。

 ところで暫くするとこんどはウトウト眠くなります。これをbとします。このbもそのままb′,b″とつづけるとすれば,本当の居眠りになってしまいます。居眠りについてb,b′,b″と順に符号をつけるのはおかしく思われるかもしれませんが,坐禅の実際としては,実際にそうなのです。というのは,坐禅しながら眠くなっている場合,そこに何かふっと頭に思いが浮かんだときは,もはや居眠りしているのです。何か思いが浮かぶのは夢みているのだからです。それで坐禅の実際としては思いを追うのと,居眠りしているのとは事実上別なものではありません。つまりはっきり目がさめていながら,そこに思い浮かび,さらにそれを追うのはまさしく「考え事をしている」ことなのですが,もし眠くなり,そこにふっと思いが浮かんで,さらにそれを追うのは,それはもやは居眠りしながら夢を追っていることなのです。時には「自分は今眠いけれど,その眠さに耐えて,しっかり坐禅しているぞ」と思いながら(つまり夢をみながら)ぐらぐら居眠りを漕いでいることだってあります(このことは坐禅体験の上から事実そうなのであり,私は催眠術のことについて何もしりませんが,もしかすると,こういう仮眠状態を,催眠術は応用するのかもしれません。)だから坐禅する人は,眠いときには,ことに思いを追わぬよう,いきいきと骨組と筋肉によって坐禅に力をいれ,はっきり覚めて,生命の実物に立ち帰らなければなりません。この覚触も又矢印←であらわしましょう。

 実際にわれわれが坐禅するときには,こうしたa→,あるいは←bの連続なのです。あるときには,この覚触さえも忘れてしまって,c,c′,c″と「今坐禅している」という生命の実物からすっかり宙に浮き,考え事を追ってしまうこともあるかもしれません。そしてうっかりすると,その思いを追うことのなかに,すっかり出来上がってしまった「まざまざとある姿c'''」(たとえば彼女)と対話し,交際するようになってしまうこともあります。しかしこのときでも,坐禅人がもし覚触すれば(思い手放しに,骨格と筋肉で坐禅の姿勢を実物すれば)このような「まざまざとある姿c'''」は,ふっと消えてなくなってしまい,坐禅している実物(ZZ′)に立ち帰ることができます。----ここの所が実に不思議です。「まざまざとあるc'''」が実体あるものではなく,たんなる思いの虚出没(実体なき出没)でしかないことが明らかに知らされるからです。とにかくわれわれ坐禅しているとき,気づいたら,cの段階でも,c′の段階でも,c″の段階でも,c'''の段階でも,何れの段階でもいいから,できるだけ早く坐禅を覚触し,ZZ′に帰るべきです。そしてこのいつでも覚めて,とにかくZZ′に帰る→覚触の姿勢こそが坐禅というものなのです。

 そうです。はじめに私は「われわれ坐禅する場合『坐禅するということZZ′』がいまのわれわれの生命の実物であるべきだから,このZZ′の線を,ぜひとも守らなければならない」といいました。しかし今私はこれを言いかえなければならないでしょう。ZZ′は「坐禅の姿勢」の実物なのです。しかしわれわれの生命の実物は,ただそれだけでないからです。というのは,ZZ′だけであったら,たとえば石が置いてあるのと,ちっとも違わず,生命ではないでしょう。むしろ生命は,いまこのように坐禅の姿勢の実物ZZ′の線をねらっていながら,じつは決してZZ′に固定することはできず,却って,いろいろと宙に浮き,外れがちであるということ,しかし尚ZZ′を覚触し,それに立ち戻る力(→)こそがわれわれの坐禅している生命の実物なのです。そして覚触するときには,そこに思い浮かぶ所のすべては,いつでも忽ちにふっと消えてしまう実体なき虚出没でしかないとしらされることが,坐禅というものです。
−−−−−−−−−−−−−−−−

| | | コメント (0)

2009年12月20日 (日)

御意のままに。

内山興正著『大空が語りかける−興正法句抄』(p66)より。

ゲッセマネの苦祷

地獄へ堕ちたら まっすぐに
地獄をつとめあげるより途はない
それは逃げても逃げられず
拒絶しても拒絶できぬことだから
−ただ弱い私がどうしてそれに耐え
 それを乗り切ることができるだろう−
“南無観世音菩薩”
南無世を観ずる音こそ
わが自在の声
私に働く天地一杯生命力の叫び
“もし得べくば この苦杯を
弱いわれより過ぎ去らせ給え
さわどわが意(こころ)のままにとにはあらず
御意(みこころ)のままになし給え”

| | | コメント (0)

2009年12月14日 (月)

黙って照らす。

内山興正『天地いっぱいの人生』(p185)より。

坐禅をしていっさいの想念を断つ,などと勇ましいことをいう人がいるが,われわれにアタマがある以上,坐禅をしてなにも思い浮かばないということはない。思い浮かばないのいいなら,石でも置いたほうがましだ。われわれは石ではない。われわれは生命体なのだから,不動の姿勢で坐っても渾身の力で気張っても,思いは次々浮かぶ。これが当たり前なのだ。しかし,この思いを久遠実成の真の自己から見渡して,アタマの分泌物にはとらわれない,分泌物によって行動しない,これを「坐り」という。思いをただ黙って見ている。これを「黙照(もくしょう)」という。黙って照らす。ここが大切なところです。

その上,この「坐り」からわれわれの日常生活を見渡す。

生活には面白いこともある。つまらないこともある。うれしいこともある。悲しいこともある。あるいは絶望的になることもある。しかしそれらを「黙照」すれば,すべて「生命の風景」ですよ。坐禅しているときいろいろな思いが浮かぶのと同時に,これは一つの風景だ。その風景にとらわれて一つ一つ追っていくのではなく,一つ一つの風景に振りまわされるのではなく,ただ黙って照らす。これが一生の「坐り」というものです。そのような日常生活が「洗練された人生」というものです。しかもかんじんなことは,実際に坐禅を行じない限り,このような洗練された人生は開かれないということです。

(第三話 世界の指導力としての仏教/頭脳の分泌物を照らす)

日本の古本屋にて内山興正『天地いっぱいの人生』を探す。

| | | コメント (0)

2009年12月 9日 (水)

銖両を一目に視る。

気が重い…、とか、気が軽い〜、とか、そういうことはどうでもよくて。

(典座教訓)


| | | コメント (0)

2009年12月 8日 (火)

向上していくというバイタリティーは必要?

内山興正『天地いっぱいの人生』(p65)より。

確かにあなたのいわれるように,人間,競い合ったほうが,一見,効果をあげます。それで競り合うのが向上することだと思われがちですが,競り合いをやれば必ずハネ返しがくる。これは一つの業です。人をハネのけているときはいい気持ちでやっているが,反対にハネのけられる立場に立たされたとき,もう生命力が出てこない。これではいけない。修行というのは,そういう対立競争でやる仕事ではなのです。一切ぶっ続きの生命力が,私は私なりに,あなたはあなたなりに働いているのだから,私なりにあなたなりに,いかに刻々どうやるかをねらう。ただそれだけだ。うまくやろうなどと考えない。凡夫はうまくやろうと考えるが,その凡夫をやめて,生命力に従って,ただやる。

(第一話 生命を拝む/野良犬になって吠える−質疑応答から)

日本の古本屋にて内山興正『天地いっぱいの人生』を探す。

| | | コメント (0)

2009年12月 7日 (月)

一炷(チュウ)坐って…(3)。

内山興正老師の四聖諦の読みは,坐禅という「行」からしか出てこない。坐禅という「行」に立ってこそ,出てくる言葉だ。

内山興正『自己-宗派でない宗教』(p246-249)より。
---------------------------------------------------
 してみれば四聖諦にしても,「苦のもとは欲望である」,それゆえ欲望を滅すれば,寂滅の楽が得られる」などといういいかたをすればアヤマリです。
 「寂滅の楽を得ようとする,そのことが欲望ではないか」と,かって発したわたしの疑問は,けっしてアヤマッテはいませんでした。寂滅の楽をえんとする欲望がそのまま,かえって修行者をして,抜くべからざるディレンマに追いこむだけですから。
-真実の佛法のおしえは,そんなことではありません。
 「欲から苦が生ずる私がある。」
-まず苦,集の二諦は,かくおしえます。これは流転輪廻する自分のすがたのことをいうのです。
 しかし同時に「これとまったくちがった自己」があります。それはつぎの滅,道の二諦がおしえる。
 「道をあゆむなかには,寂滅している自己がある。」
ということです。
 四聖諦はただこの二つの自己の道をならべてみせるだけです。

(略)

 だから坐禅してぼつぼつ思いをしずめようとしたとて,じつは坐禅のなかには,しずめるべき何ものもありません。坐禅はただ(祗管)坐禅するだけです。坐禅は,坐禅の独悟現成でのみあります。
---------------------------------------------------


| | | コメント (0)

2009年12月 6日 (日)

意識。

外にも内にも向けない。ただ前を見る。

| | | コメント (0)

2009年12月 4日 (金)

気づき。

相手のためにしている行為のすぐ裏側に、自分の充足を優先する力が働いている。

| | | コメント (0)

2009年12月 1日 (火)

坐禅とは…。

「"戻るところ"に"戻る"こと」だと思う。

| | | コメント (0)

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »