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2010年1月27日 (水)

覚触のめあて。

「ただ前をみる」という方向性が引き出されてくる感覚。

※覚触について。
内山興正老師『生命の実物』より。

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 さてつぎに,このような坐禅をしている場合の内部体験の実際を,できるだけこまかに分析記述してみましょう。まず一本のZZ′の線をひき,これを「まさしく坐禅の姿勢を守っていること」といたします。(第9図参照)われわれが坐禅する場合には「坐禅するということ,ZZ′」がいまのわれわれの生命の実物であるべきですから,このZZ′の線をぜひとも守らなければなりません。ところがさきにいいましたように,われわれ人間が坐るということは,石がそこに置かれてあるのとはちがい,固定しているわけではありませんから,ともするとこの線から外れがちです。あるいは思いが浮かんだり,あるいは居眠りがでてきたりしてしまいます。

 たとえばZ-Z′の線から外れて,aという思いが浮かぶとしましょう。もしこのaという思いを土台としてa′,a″などと思いをつづければ,もはや考え事になってしまいます。自分の仕事のことが思い浮かんで,つぎにはその仕事の予定だとか,やりくりだとかの思いをつづければ,これは明らかに仕事についての考え事をしているのでしかありません。そこで思いを手放しにして,骨組と筋肉によって,坐禅の姿ZZ′を覚触(覚めて実物)し,生命の実物にかえります。この覚触を矢印→で表わします。

 ところで暫くするとこんどはウトウト眠くなります。これをbとします。このbもそのままb′,b″とつづけるとすれば,本当の居眠りになってしまいます。居眠りについてb,b′,b″と順に符号をつけるのはおかしく思われるかもしれませんが,坐禅の実際としては,実際にそうなのです。というのは,坐禅しながら眠くなっている場合,そこに何かふっと頭に思いが浮かんだときは,もはや居眠りしているのです。何か思いが浮かぶのは夢みているのだからです。それで坐禅の実際としては思いを追うのと,居眠りしているのとは事実上別なものではありません。つまりはっきり目がさめていながら,そこに思い浮かび,さらにそれを追うのはまさしく「考え事をしている」ことなのですが,もし眠くなり,そこにふっと思いが浮かんで,さらにそれを追うのは,それはもやは居眠りしながら夢を追っていることなのです。時には「自分は今眠いけれど,その眠さに耐えて,しっかり坐禅しているぞ」と思いながら(つまり夢をみながら)ぐらぐら居眠りを漕いでいることだってあります(このことは坐禅体験の上から事実そうなのであり,私は催眠術のことについて何もしりませんが,もしかすると,こういう仮眠状態を,催眠術は応用するのかもしれません。)だから坐禅する人は,眠いときには,ことに思いを追わぬよう,いきいきと骨組と筋肉によって坐禅に力をいれ,はっきり覚めて,生命の実物に立ち帰らなければなりません。この覚触も又矢印←であらわしましょう。

 実際にわれわれが坐禅するときには,こうしたa→,あるいは←bの連続なのです。あるときには,この覚触さえも忘れてしまって,c,c′,c″と「今坐禅している」という生命の実物からすっかり宙に浮き,考え事を追ってしまうこともあるかもしれません。そしてうっかりすると,その思いを追うことのなかに,すっかり出来上がってしまった「まざまざとある姿c'''」(たとえば彼女)と対話し,交際するようになってしまうこともあります。しかしこのときでも,坐禅人がもし覚触すれば(思い手放しに,骨格と筋肉で坐禅の姿勢を実物すれば)このような「まざまざとある姿c'''」は,ふっと消えてなくなってしまい,坐禅している実物(ZZ′)に立ち帰ることができます。----ここの所が実に不思議です。「まざまざとあるc'''」が実体あるものではなく,たんなる思いの虚出没(実体なき出没)でしかないことが明らかに知らされるからです。とにかくわれわれ坐禅しているとき,気づいたら,cの段階でも,c′の段階でも,c″の段階でも,c'''の段階でも,何れの段階でもいいから,できるだけ早く坐禅を覚触し,ZZ′に帰るべきです。そしてこのいつでも覚めて,とにかくZZ′に帰る→覚触の姿勢こそが坐禅というものなのです。

 そうです。はじめに私は「われわれ坐禅する場合『坐禅するということZZ′』がいまのわれわれの生命の実物であるべきだから,このZZ′の線を,ぜひとも守らなければならない」といいました。しかし今私はこれを言いかえなければならないでしょう。ZZ′は「坐禅の姿勢」の実物なのです。しかしわれわれの生命の実物は,ただそれだけでないからです。というのは,ZZ′だけであったら,たとえば石が置いてあるのと,ちっとも違わず,生命ではないでしょう。むしろ生命は,いまこのように坐禅の姿勢の実物ZZ′の線をねらっていながら,じつは決してZZ′に固定することはできず,却って,いろいろと宙に浮き,外れがちであるということ,しかし尚ZZ′を覚触し,それに立ち戻る力(→)こそがわれわれの坐禅している生命の実物なのです。そして覚触するときには,そこに思い浮かぶ所のすべては,いつでも忽ちにふっと消えてしまう実体なき虚出没でしかないとしらされることが,坐禅というものです。
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2010年1月23日 (土)

新コーナー「朝ごはん」ブログ作成しました!

毎日の朝ごはんを記録するブログを作りました

「初心者HIROの参禅日記:朝ごはん」です。
のぞいてみてくださーい。

(http://junsoyo.cocolog-nifty.com/)

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2010年1月 6日 (水)

「一」とは。

「一」とは「主体」である。

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2010年1月 1日 (金)

一炷(チュウ)坐って…(5)。

新年の始まりは,一炷(チュウ)の坐禅から…。

止めどなく湧く思いやアイデアや妄想の類いも,生きていればこそ

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