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2015年4月19日 (日)

仏法的コトバとしての正法眼蔵〜内山興正『正法眼蔵 行仏威儀を味わう』より。

内山興正『正法眼蔵 行仏威儀を味わう』柏樹社(1989年)より。

(28-29頁)

しかしここで道元禅師が行仏威儀といわれているのは、どこまでも仏法の話なのだ。その点、正法眼蔵の一顆明珠、古鏡、山水経の各巻にしても、何も珠の話ではない。ふるいかがみの話でも、観光の山水の話でもない。どこまでも仏法の珠、古鏡、山水の話だ。そしたら当然、ここでも「行」も仏法、「仏」も仏法、「威」も仏法、「儀」も仏法、みんな仏語として教えられているのでなければならない。

大体コトバが人間同志通じ合うのは人間同志の約束事だからだ。約束事である限り、本当は生命の真実でも仏法でもある筈はない。ところが道元禅師はその「他とのカネアイの相対的コトバ」を「絶対」として使われる。約束事のコトバを使いながらそれを絶対的意味として読みかえられる。要するに世間的なコトバをもって一々仏法の深い意味を教えられる。そして、ちょうど世間の親たちがわが子に「これはワンワン」「これはニャンニャン」「あれはキシャポッポ」と一々コトバを教えるように、道元禅師はわれわれ仏法的赤ちゃんのために、いま世間的なコトバを取り上げながら、一々その仏法的意味をかんで含めるように説かれる。それが正法眼蔵の話だ。だから本来、口ではいえない筈の仏法なのに、正法眼蔵のような大部の本が書かれなければならなかったのである。つまり世間的な約束事のコトバをいろいろ取り上げながら、いずれもそれらが他とのカネアイでない絶対的意味をもっていることを何度も何度も繰り返すことによって、仏法的眼としての見方をわれわれにしみ通らせていく。−−−−そういうおつもりで道元禅師は正法眼蔵を書かれたのだ。それだからわれわれは仏法的赤ちゃんとして、まず世間ずれした固定概念を手放し、マッサラな素直な気持ちで正法眼蔵をよみ、仏法的コトバになじんでいかなければならない。

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