「そういうところには初めて宗教の話がある」〜内山興正『天地いっぱいの人生』より。
内山興正『天地いっぱいの人生』春秋社(1983年)より。
(120-122頁)
例えば「諸行は無常だ、だからなにかに執着すれば苦しみがある。そういう執着を捨てれば苦しみは解脱する」などと『阿含経』の言葉を口語訳したようなお説教をするのは結構であり、真理ではあるが、ほんとうの「オレ」は「事実として執着せざるを得ない」という面を持っているのです。従ってそこが語られていない限りピンとひびかない。自己とは関係のない教祖の話でしかない。
キリスト教の説教でも同様です。たいていの牧師さんは「われわれは神の前にただ独り立つ。このとき私はいかに罪多き人間であることか。いかに罪悪に満ち満ちていることか。おお、神さま」といった調子で、ふるえ、おののき、神の前でもう立っておられないという身ぶりで説教する。ところが説教が終わったあとで信者の若い娘さんとたわむれているところをうっかり見てしまったことがあるけれど(笑い)、これではどうかと思わざるを得ない。いや、娘さんとそんなことをしてはいけないというのではない。ただ、神の前で私は罪人でありますと恐れ入っているのと同時に「しかも私はそれでもなお若い娘とたわむれざるを得ないのであります」とそこまでいってくれなくては(爆笑)、笑いごとではなく、こういう矛盾を含む私自身をどうするか、宗教というのはそれから先の話だと思う。
江戸時代には「籍らしむべし、知らしむべからず」という言葉があった。しかしこれらの時代は、そんなことでまるめこまれる人はまずいなくなる、といってはいいすぎですが、少なくともまるめこまれるような善男善女は減っていく。早い話が、田舎の善男善女が都会へ出てくればどうしても人間がすれてくる。あれこれと比べて批判するようになる。つまり悪男悪女が増えてくるわけだ。私自身がそうだったが、今後は私のような悪男悪女がいよいよ多くなると思う。
そういう悪男悪女が宗教家に望んでいるのは、単に「かくあるべき立て前の話」ではない。諸行は無常である、執着すれば苦しまねばならぬ、だから執着すべきでない、といったお説教ではない。そうではなく、自分のなにもかもさらけ出して、この自分全部をぶるけるような話。そういうところには初めて宗教の話があるということです。自分をさらけ出さない、中味のない、きれいごとを並べる話は、ほんとうは宗教の話になっていない。このことをまず第一番に、これからの宗教、宗教家に注文したいと思います。
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