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2015年5月20日 (水)

どう坐りつつあるか?

先日、腰割りを契機に街を歩いている時に得た気づき

“「歩く」と「歩む」は違う。
「どう歩くか?」と問うのではなくて「どう歩んでいるか?」と問うた方がいいみたい。
「どう歩んでいるか?」と問いが変わると、歩き方も変わる。”

こういう経験が利いているのだと思うけれど、
今日、坐禅をしていて、ふと…

坐り始めるまでの所作が、手順・作業になってない?

という思いがよぎった。

で、坐ったあと、道元禅師の『普勧坐禅儀』を開いてみる。


▼普勧坐禅儀原文▼
(読み下し文)
内山興正老師意訳
謂結跏趺坐先以右足安左*上,左足安右*上。
(謂く,結跏趺坐は先ず右の足を以て左のももの上に安じ,左の足を右のももの上に安ず。)
(*=月+(比+土))
〔結跏趺坐はまず右の足を左のもものうえにおき,左の足を右のもものうえにおく。〕
半跏趺坐但以左足壓右*矣。
(半跏趺坐は但左の足を以て右のももを圧(お)すなり。)
〔半跏趺坐は,ただ左の足を右のもものうえにおくだけである。〕
寛繋衣帯可令齊整。
(寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて斉整(せいせい)ならしむべし。)
〔ゆったり着物をきて,さっぱりした姿であるようにする。〕
次右手安左足上,左掌安右掌上兩大拇指面相*矣。
(次に右の手を左の足の上に安じ,左の掌を右の掌の上に安じ,両の大拇指面(むか)いて相さそう。)
(*=てへん+主)
〔つぎに右の手を左の足のうえにおき,左の掌を右の掌のうえにおいて,その情報に両親指をつけて円相をつくる。〕
乃正身端坐不得左側右傾前躬後仰。
(乃ち正身端坐して,左に側(そばだ)ち右に傾き,前に躬(くぐま)り後ろに仰ぐことを得ざれ。)
〔つまり正身端坐をするわけで,左に傾いても右に傾いてもならないし,前にこごんでも後に仰いでもならぬ。〕
要令耳與肩對鼻與臍對。
(耳と肩と対し,鼻と臍と対せしめんことを要す。)
〔耳と肩を対せしめ,鼻と臍とを対せしめる。〕
舌掛上(月+咢)唇齒相着,目須常開。
(舌上の(月+咢)(あぎと)に掛けて,唇歯相着け,目は須べからく常に開くべし。)
〔舌を上あごにつえて,上下の唇と歯をしっかりつける。目は平常自然のまま開いていることである。〕
鼻息微通,身相既調欠氣一息,左右搖振兀兀坐定,
(鼻息微かに通じ,身相既に調えて,欠氣一息し,左右揺振して,兀兀として坐定して,)
〔呼吸は鼻でせよ。長息は長にまかせ,短息は短にまかせて,もっとも自然であり,自ら呼吸しているとも忘れているのがよい。坐禅の姿がととのったら,まずハァッと息をはき出して,左右に身体をゆすって坐を安定せしめてから,不動の姿勢となる。〕
思量箇不思量底。
(箇の不思量底を思量せよ。)
〔そうして思いの手放しである坐禅の姿勢(不思量底)を,ただ骨組と筋肉をもって生き生きとネラッテいる(思量する)ことが,正しい坐禅というものである。〕


気づくと、たとえば、「先ず右の足を以て左のももの上に安じ,左の足を右のももの上に安ず」を、「先ず右の足を左のももの上において、次に左の足を…」と手順的に受け取ってやっていた。
だから、この過程は坐禅の形をつくるためのただの作業になっちゃう。

そうじゃなくて、「まず右の足を左のもものうえにおき,左の足を右のもものうえにおく」という行為のなかに、「どう坐りつつあるか?」という問いかけがなければいけない。

これは一つ一つの段階(右の足を左のももにおいて、次に…)の確認じゃない。

「まず右の足を左のもものうえにおき,左の足を右のもものうえにおく」という行為は、「どう坐りつつあるか?」という問いかけに対しての応答を感じること。

そういう「どう坐りつつあるか?」という応答の過程の先に、「思量箇不思量底」という坐りが生じる。

というふうに、ここは読まないといけないのでは…?

などなど思ったりして…。

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2015年5月13日 (水)

禅的集中。

腰割りネタ。

12月から腰割りを始めた。

最初のうちは、重心やら筋肉の感じやら、
明らかにカラダが変化するので、
面白がって、せっせとやっていたけれど…

稽古のキモを掴まないまま、
ネットと電子ブックで情報を断片的に拾い集めてやっていると、
だんだんと習癖が出てきて、
何を稽古してるんだかわからなくなってきた。

そこで、3月になって、腰割りの本を一冊購入して読んでみる。
元 一ノ矢『お相撲さんの“腰割り”トレーニングに隠されたすごい秘密』 (じっぴコンパクト新書 053)

で、一番引っかかった言葉が、「はまる感覚」。

「はまる感覚」って何?

「たぶん初心者の人は最初は、感覚がつかめなくて多少つらいと思う人もいるかもしれません。でもやっていくうちにだんだんと気持ちよくなってくるはずです。「ああこんな感じだ」「こうやったら楽だ」っていう感覚がわかってくると思うんです。それが「はまる」っていうところですよね。」(68頁)

などなど書いてあるのだけれど、体験的にはわからない。
わからないけれど、どうも「はまる」という方向性で稽古するといいらしい…。

で、はまらないまま、気の向くまま、毎日ちょびちょびやっていると、
腰割り以外で思い出すこと気づくことが増える。

今日もカフェ巡りで5kmほど歩いたのだけれど、
歩いていると…

結構足裏がいろんなことを教えてくれる。
足裏の感覚が一番に大事。

とか、

「歩く」と「歩む」は違うのだなぁ…。
「どう歩くか?」と問うのではなくて「どう歩んでいるか?」と問うた方がいいみたい…。

などなど…。そうそう、

「どう歩んでいるか?」と問いが変わると、歩き方も変わるから面白い。

それから、集中の仕方について。

これは、大きな気づき。

やっぱり日常生活の中で、集中していると時、集中しようとするときには、
必ずといっていいほど対象がある。

カフェで仕事してるときなど集中しているので、
あっという間に1時間2時間すぐに経つ。

坐禅の難しさがあるとしたら、集中の仕方かもしれないなぁ…と。

坐禅のとき、集中しないと、眠くなるし、妄想に陥ちる。
でも、目の前の壁や外の音など外部環境を対象化して集中したり、
自分の身体の状態という内部環境を対象化して集中したり…
というのは、坐禅じゃなくなる。

坐禅には坐禅の、この主客二元論的な集中の仕方ではない集中の状態というのがあって…。

これが難しい…。

こないだ新宿の朝日カルチャーで、以前稽古していた中国武術・日本韓氏意拳学会の会長・光岡英稔さんと禅僧・藤田一照さんのコラボ講座があった。

そのとき光岡さんは意拳の稽古では「外3:内7」という意識の配分というか集中のした方が大事で…
というような話をされていたが、
禅的な集中の状態に近いのではないかと思う。

過去の韓氏意拳の稽古の経験から言って…できないけど…。

ということは、ということとして、
「はまる感覚」を課題に腰割り続けよ…っと。

身心はぶっつづきだ。

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