「一切二つに分かれる以前の生のいのち」〜内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』より。
(54〜56頁)
「心木心石の風聲(ふうしょう)を見聞するより、はじめて外道の流類を超越するなり。それよりさきは佛道にあらざるなり」
そういう生(なま)のいのち地盤の風声(様子)を事実生きることによって、初めて仏法の話になる。
「仏法の為に仏法を修す、乃ち是れ道なり」(学道用心集)
これも道元禅師の言葉ですが、何から何まで御いのち地盤で、この御いのち地盤を生きるより他仕方ないのが仏道というものです。すべてをそういう御いのち地盤において生きない限り、仏法の話にならない。
ところがその辺、いま仏教のお説教も講座も本も沢山あるわけだけれど、仏法の話になっているお説教がめったにないから困る。心木心石の風声を見聞した話になっていない。少なくとも坊さんとしてお説教しようとする限りは、是非ともこの心木心石の風声を見聞してから話してもらいたい。「それよりさきは仏法にならざるなり」だ。そんな人間世界から考えたちょこっといい話なんていうお説教は、サイダーのあぶくみたいなもので全く仏法になっていないのです。
「大證國師曰、牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)是古佛心」
普通は牆壁瓦礫という向こう側と、それを見ている私とがいるわけだ。「牆」とはまがき、「壁」はかべ、「瓦」はかわら、「礫」は小石。しかしここで牆壁瓦礫といっても、そんな壁や瓦の話をもちだしているのではない。見る私と向こう側と一切二つに分かれる以前の生(なま)のいのちとしての牆壁瓦礫のことをいう。
だから「牆壁瓦礫が古仏心なのだな」と思ったら間違いです。一切二つに分かれる以前である限り、古仏心と牆壁瓦礫に分けた後の話ではない。そういう人間的分別が加わる以前こそを牆壁瓦礫という。つまり牆壁瓦礫は牆壁瓦礫に喩える他ない。それが古仏心だ。古仏心は古仏心に喩える他ない。それが牆壁瓦礫だ。
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