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2015年7月14日 (火)

「自己はただいかに内側に向かって成長するかだ」〜内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』より。

内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』(柏樹社)より。

(21〜23頁)
それにしてもこの度新発見したつもりになっていた「生(なま)のいのち」という言葉が、もう二十年近くも前に自分自身何遍も使っているというのはどういうことか。これは同じ「生のいのち」という言葉でも、そこに籠められた中味の深さが違う。いわば、以前に比べて今は一層目を細かくして使っていると思う。

どういうふうに目が細かくなっているかというと、それはこの「発無上心」の巻を味わう私の言葉全体としても感じていただけるものと思いますが、まずわれわれ誰でも生のいのちを生きているということだ。われわれ決して干からびたいのちを生きているのではない。誰でも彼でもみんないきいきした生のいのちを生きている。ということは、自分自身が生のいのちであるばかりではなく、自分が経験する一切諸法すべても又生のいのちならざるはない、ということです。

大体、実際的具体的に生きているのは、ただ私は私、あなたはあなたという個体的いのちだけです。人間一般という概念が生きているのではない。ところで、その個的私というのは、常にそれぞれの私の働きと共にある私だ。

働くという限りは、とにかく目の前のものに対し働くのだから働きの場ぐるみがかけがえのない私のいのちだ。ただ今ここ、私がそういう働きの場ぐるみという態度で生きるなかに、生のいのちが実際に現成していく。これからお話しする「発無上心」というのもその深さ以外にないということで、これは二十年前に言ったことより少しは目が細かくなっているとーーまあそう思わなければ私は二十年間少しも進歩はなかったわけで、私も救われない。いや、確かにそれだけはこの二十年間に目を細かくしてきたと思う。

実際、成長の仕方には、そういう成長もあるのです。例えば普通、樹々が大きくなるということは、幹や枝が伸び太さが段々太くなることだ。それに対して竹という植物は、初めから伸びも太さも決まっている。そして年数が経ってくると、幹の内側に向かって肉が厚くなりしっかりしてくる。だから竹竿にするのにも新しい竹を使ったら弱くてすぐ折れてしまうし、竹槍に使うなら一層丈夫で重い古竹でないと駄目だ。その点私の成長の仕方も内に向かって肉をもって深みを増しそれだけしっかりしてきたと、そういう成長の仕方として考えていただきたい。

「仏道をならふというは、自己をならふなり」(現成公案)

仏道というのは自己を習うのだから、誰でも彼でも自己を生きているという点において初めから太さは決まっている。他の誰か偉い人になり変わるために修行するのではない。自己はただいかに内側に向かって成長するかだ。

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