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2016年1月13日 (水)

魚川祐司 著『仏教思想のゼロポイント』。

魚川祐司 著『仏教思想のゼロポイント』。


立ち読みで済ませようかと思ったのだけれど、
とてもおもしろいので購入〜。

久々エッジのある本と出会った感じ。

まだ、完全に読んだのはここだけだけれど、
第8章「本来性」と「現実性」の狭間で、が面白い!

今『プラグマティズム入門』を読んでいる途中なので、
なんとはなく、『プラグマ−』を読むモードでこの本も読んじゃってます。

以下、忘備録。4点。

①魚川氏は、
「「本来性」と「現実性」との関係が多様な仕方で把握される過程として仏教史を眺めてみるならば、そのうちのどれか特定の立場だけを「正しい仏教」であるとし、それ以外は「間違った仏教」であると断定することに、さほど重要な意味はなくなってくるのではないか。」(p202)と言っている。

仏教思想の変遷を「本来性」と「現実性」を核としたパラダイム転換と捉えると、テーラワーダと大乗仏教にレベルをつけることはできない。

②ブッダ以降さまざまにパラダイム転換したさまざまな仏教(テーラワーダや大乗仏教の様々な有り様)が、それでも「仏教である」「仏教を生きることである」ということに関して。

「現代の私たちが知っている仏教は、「本来性」を自足にして「現実性」を忘れることも、「現実性」にただ埋没して「本来性」を知らずにいることも、どちらもゴータマ・ブッダと同様に、敢えて拒否した覚者たちによって、形成されたものである。そして、それが圧倒的な多様性を有することになり、その結果として日本まで伝わったのは、他者や同胞からいかなる批判を受けようと、「本来性」と「現実性」との関係のとり方について、時代や地域の文脈から引き受ける形で、自ら新しく語り直す志を持った覚者たちが、常に存在し続けてきたからだ。」(p204)

ネットをググると、
魚川氏が「本来性」と「現実性」と言っているからか、
二分法批判のような記事が引っかかるのだけれど、
第8章を読んだ時点では、決して二分法に落ちているとは思われない。

③もし仏教にレベルがあるとすれば…

「本来性」と「現実性」との関係のとり方は時代や地域の文脈によって異なるけれど、
それをどう「引き受け、自ら新しく語り直す」か、ということにレベルが生じる、ということになると思われる。
これは、「「仏教を生きる」ということ」、あるいは、行・信仰に関するレベルの話。

④と書いて、つらつら考えていて、内山興正老師を思い出した。

以下、内山興正『求道-自己を生きる』(p112)より。
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 『大乗起信論義記』に「衆生の真心還って自ら衆生を強化す。これ仏の誓願なり」とあるけれど,誓願というのはなにか特別にアタマで考えて向こうに描くことではない。衆生の真心,本来の自己,それがもう誓願なんだ。だから,生来の自分から,本当の自己を見れば,これは誓願として現れる。

 ところがこんどは反対に,本来の自己から,生来の自分を見ると,生来の自分というのは,本当はこうあるべきなんだと言いながら,実はそれが実現していない。業という手カセ,足カセにはめられているから,本来の自己そのものをなかなか実現できないでいる。

 その限りそこに懺悔という面が必ずある,なければならない。この誓願と懺悔というのは本来の自己と生来の自己とのカネ合いのところに当然でてこなければならない。それを一方的な話をしたら,どうせ間違っている。
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