「だから本当は誰でも働きの場がなくなるということはあり得ない。」
(180〜182頁)
畢竟帰
生存の絶望ーそれが死ぬということである
死ぬ間際
一生営営として働いてきた
すべてから背かれ ふいになり
絶望のどん底に突き落され
だが一事 十方仏土中
どっちへどうころんでも御いのち
ーーこの根源的絶対地盤で
釈尊は生滅滅已 久遠実成し
イエズス様は十字架上に死し
永遠のいのちに復活(よみが)える
虔んでこの絶対決まる処へ決まった
畢竟帰の御いのちを拝む
これは「御いのち抄」に書いた詩ですが、生存が絶望しなければ死ねないのだから、みんなその時思いとしては全く絶望するのだと思う。しかしながら「十方仏土中、どっちへどうころんでも御いのち」、これが一番素晴らしいことです。この絶対地盤は生滅二つに分かれる以前なのだから、生をも滅し已えてそこに久遠実成している。
キリスト教でいえば「肉の思いは死なり」で十字架に死し、しかし同時に「霊の思いはいのちなり平安なり」で永遠のいのちとして復活(よみが)える。結局虔んでこの御いのちを拝むばかり。生のいのちの泉は固定的存在ではなく、いま事実「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と拝むなかに滾々(こんこん)として湧き出してくる。
だから本当は誰でも働きの場がなくなるということはあり得ない。みんな約束事だけの働きばかり考えているから働きの場がなくなってしまう。しかしわれわれ生きている限りは、最後のギリギリまで生きている働きの場を授かっているのです。それをどこまでも大切に、老いの時は老いと共に育ち、病いの時は病いと共に育ち深めていく。
その深さの修行とは何かといえば、ただ「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」の一事だ。死ぬ時には死ぬという働きの場ぐるみ生のいのちの修行をしていきたい。
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