"take"じゃなくて"receive""accept"の方向性。
今朝の一炷(ちゅう)は眠かった…いつにも増して。
でも、眠い中にも落ち着きは見つけられるらしい。
"take"じゃなくて"receive""accept"の方向性であれば…(かな?)
"坐る"って、微細なプロセスなんだなぁ…
というのが、今日の感触、味わい。
●鈴木俊隆、藤田一照訳『禅マインド ビギナーズ・マインド2 -ノット・オールウェイズ・ソー』サンガ新書、2015年。
(64–66頁)
最近、私はブッダが道について説いている一説を読みました。「比丘たちよ、食物や飲み物を受け取っているときには、もろもろの欲望を抑制し、それを薬として受け入れなさい。自分の好き嫌いに基づいてそれを受け取ったり拒絶したりしないようにしなさい。自分のからだを維持し、飢えや乾きを満たすだけにしなさい。蜂が蜜を集めるときに、花を味わうだけで、その色や香りを損なうことがないように、あなた方もまた、人々の供養を自分が疲労困憊しないために必要なだけを受け取りなさい。多くの要求をもちすぎて、人々の心を損なうことがないようにしなさい。たとえばそれは、賢明な人が動物の体力の許容量をよく判断して、荷物を積みすぎて疲れさせないようにするようなものである」(『仏遺教経』……(略)……「食物や飲み物を受け取っているときには、それを薬として受け入れなさい」。これは、集中して、「自分」と「食物」といったような、いかなる二元的な観念ももたないで、それを全身心をもって受け入れるということを意味しています。ですから、食べ物を「取る(take)」とは言わないで、食べ物を「受ける(receive)」「受け入れる(accept)」のです。
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