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2017年4月22日 (土)

「当の本人であるかぎり、この因縁は自己にとっての莫作である」。

内山興正『正法眼蔵―有時・諸悪莫作を味わう』柏樹社(1984年)より。

(157-160頁)

「正当恁麼のとき、初中後諸悪莫作にて現状するに、諸悪は因縁生にあらずただ莫作なるのみなり。諸悪は因縁滅にあらずただ莫作なるのみなり」

最初に申しましたが、「正当恁麼のとき」とは、私の言葉でいえば生命実物が実物通りのとき。「初中後諸悪莫作にて現成す」とは、過去の因縁でいまが引き続き、いまが未来に引き続く、そういう因縁があるというような概念的なものではない。アタマ手放しのところにそんな決まったものはない。作りごとなしの生命実物が、生命実物として現状する。

「諸悪は因縁生にあらず。因縁に引かれているのではなく、因縁そのものが莫作だ。また「因縁滅にあらず」。因縁が滅すればなくなるものでもない。因縁の生、滅は考えず、ただ莫作だということです。

たとえば、若い人に好きな女性ができると、ついアバタもエクボになる。この世界にあんな麗しい女性はいないと決めこんでしまう。そこで行動を起す(笑い)。行動してはいけないというのではないが、世の中、そんな彼女だけが美人と決まっていあないという醒めた目で見なければいけない。さもなくて下手に行動してしまうと因縁生、因縁滅にひっかかってああしたからこうなったと流転輪廻にまきこまれる。仏教は流転輪廻から解脱することです。解脱とは、手放しということです。世間では縁起がいいとか縁起が悪いとかよくいうが、そんな縁起のよし悪しなど一切手放しというところから行動しなければならない。

「諸悪もし等なれば、諸法も等なり」

「等」という言葉は、仏教では独特の意味がある。われわれは善を体験することもあれば悪を体験することもある。飯を食べているときもあれば、作務をしているときもあれば、坐禅をしているときもある。すべて自己の生命体験という地盤では平等です。等とはそういうことです。それで坐禅を等持(とうじ)という。・・・(中略)・・・坐禅というものは、坐禅の恰好をして坐って、一切手放しにする。それだけで立派な坐禅なのだ。妄想が起きようがスカッとしようが、すべて手放し、迷いも悟りも、ひと目でみているというところが大切です。

ところが今の仏教では、仏教の話にならない話が多すぎて困る。転凡入聖とか、転迷開悟とか。そういう話ばかりだった。その点、真宗の話を聞いていると、さすがみんな仏教の話になっている。転迷開悟の話ではない。この身このまま、すべて阿弥陀さまにひとくるめにひっくるめられている。

ーそこが大事だ。

「諸悪は因縁生としりて、この因縁のおのれと莫作なるをみざるは、あはれむべきともがらなり」

諸悪は外から観察すればこそ因縁生です。しかし観察者としてではなく、いま自分がやるというときは、因縁生ではない。この自分という当の本人であることが大切だ。当の本人であるかぎり、この因縁は自己にとっての莫作である。ところがどうしても生きている当の本人として見ることができず、観察者としてしかみられないでいるのはあわれむべき連中なのだ。

「仏種従縁起なれば、縁従仏種起なり」

仏の種というものは縁から起る。しかし縁というものは本来無生莫作、生命の実物というのは、なんともないのだ。この天井をみてごらんなさい。なんともない顔をして無生莫作だ。すべてなんともないのだ。仏のタネは縁に従っておこる。だが、その縁は、なんともないという無生莫作から起る。

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