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2020年6月27日 (土)

『宿無し弘文』。

月初に、楽天booksで注文した

『宿無し弘文ースティーブ・ジョブズの禅僧』

 

Mac信者🖥  としては読まねばならぬ〜🍎

 

ということは、おいておいて。

 

「宿無し」としているのは、

「宿無し興道」とよばれた澤木興道老師

を意識してのタイトルだと思うけど…。

乙川弘文という人の「宿無し」様は、

澤木老師とは一味も二味も三味も違うようで…。

 

「『ハングリーであれ、愚直であれ」は禅の教えだった!」

その教えってこんなこと…

という答えみたいなものを期待して読むと、

ぶっとびそーな内容。

乙川弘文師、たいへん興味深い…。

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2020年6月22日 (月)

注文2点。

①坐禅用に注文した砂時計が届いた。

4月は昼間坐っていたのだけれど、
5月に入り、夜寝る前の時間に習慣化。

10年ほど前稽古に行っていた中国武術の
形体訓練と站椿を20分ばかりやって、
ちょっと休憩してから一炷坐る。

坐る場所も、自分のせまーい書斎の
半畳の隙間で坐るものだから、
時計がわりの線香を焚くと煙い…🥵

かといって、
iPhoneやApple Watchのタイマーだと
味気ない…😑

というわけで、砂時計。
20分ほどしか坐ってないので、20分計。

よく考えると、坐るのに、
時計なんかなくてもいいのだけど…👋

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『大法輪』2020年7月号 届く。

1934年創刊の仏教雑誌。
この号を持って休刊との記事を見て、注文。

そういえば…
仏教を学びはじめた頃、
一時定期購読もしてたっけ。

最近は、ほとんど見ていなかったけれど、
老舗の雑誌が休刊するのは、
ちょっとかなしい😢

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2020年6月19日 (金)

「信」・「行」について(2)。

『拈自己抄』(2019年12月)は、内山興正が当時著作を出版していた柏樹社の機関誌掲載されていた連載をまとめた一冊。櫛谷宗則老師によれば、「内山老師渾身の書」だとのこと。

 

「信」・「行」に関わって、『拈自己抄』(2019年12月) より次の一文を抜き書いておきたい。

 


なお、ここの衆生という語についてですが、私はこれまで「世の中の生きとし生けるもの」というぐらいの意味で受け取ってきました。しかしつい最近になって仏法でいう衆生は、「衆(おおく)」に現われた私自身の「生」命という意味であるとして、深く理解するようになりました。いや正確には「出会うところわが生命」として出会う「行」の態度において衆生という言葉もあるのです。(81頁)


 

前後の文は、内山興正老師語録にupしています。

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2020年6月18日 (木)

「信」・「行」について。

先日、「信とは心の据え方、行とは如来と我との間の働きである。」の一行にひかれて、山崎弁栄 述、中井常次郎 記『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』求龍堂(2020年3月)を購入。

せっかくなので、備忘に抜き書いておく。

 


(六)第十八願の要は信と行

信とは心の据え方、行とは如来と我との間の働きである。欲生(よくしょう)とは光明中に活きんとの心。向上的生活を希(こいねが)う心。如来は衆生のために神聖、正義、恩寵の光明を放ち無量荘厳の浄土を構えてお待ち下さる、小さき虫や魚でさえ生きたい、生きたいと、生きるに役立つ食物は何でも口に入れる。それと共に、他から食われまいとする。人は精神的に虫や魚よりも進んでいるから、順境に在る間は生きたいと思っているけれども、逆境に入れば死にたくなる。知識が進めば不平不満が多くなる。現在に不平不満を抱き、遠きを恐れ、取り越し苦労をして自殺する。信仰に活きた人は形に捕われず、広い天地に活きているから、常に希望に満ち、幸福が身にあふれている。(228〜229頁)


 

「信」って何か?「行」って何か?「信ずる」「行ずる」とは、この身がどうすることか?!坐禅するものの、最重要事項。

 

澤木興道老師は、「信」や「行」について、『道元禅の神髄―「谿声山色」の巻講話 』(1963年)のなかで、次のように語っている。

 


信ずるといっても,何ぞ自分のために功利的に信ずるとか何とかなら,はげみがあっていいけれども,元来が自己を信ずることであり,自己と仏と継ぎ目のないことを信ずることである。しかるに世間で「信ずる」というと,あるものを「ある」と信ずる。そこでこの信という字は,向こうに「ある」ものを拝んで信ずることのように思うけれども,そんなものではない。つまり「澄み清き」ということである。真実の道理を澄み清く透明に疑わないことである。


 

この澤木老師の行は、以前、「澤木・内山・岸沢老師の『坐』と『行』」のコーナーに「真実の懺悔」として抜き書いたもの。「誓願と懺悔」について、内山興正老師は、『求道―自己を生きる』 (1977年)で、このように述べている。

 


 『大乗起信論義記』に「衆生の真心還って自ら衆生を教化す。これ仏の誓願なり」とあるけれど,誓願というのはなにか特別にアタマで考えて向こうに描くことではない。衆生の真心,本来の自己,それがもう誓願なんだ。だから,生来の自分から,本当の自己を見れば,これは誓願として現れる。

 ところがこんどは反対に,本来の自己から,生来の自分を見ると,生来の自分というのは,本当はこうあるべきなんだと言いながら,実はそれが実現していない。業という手カセ,足カセにはめられているから,本来の自己そのものをなかなか実現できないでいる。

 その限りそこに懺悔という面が必ずある,なければならない。この誓願と懺悔というのは本来の自己と生来の自己とのカネ合いのところに当然でてこなければならない。それを一方的な話をしたら,どうせ間違っている。(112頁)

内山興正語録にupしています。)


 

弁栄上人、澤木老師、内山老師の言葉をどう受け取るか?と考えてしまうと、つまらない。実際に、こういう「信」「行」をやってみる。それで、弁栄上人、澤木老師、内山老師のねらいとの「ずれ」を、うっすらとでも感じてみる。

 

岸沢老師は、『正法眼蔵全講』で眼蔵の御文と,自分のしているところと,どこがどっつかえるか。そのどっつかえたところに身命をなげうつのだ。と言っているけれど、「ずれ」を契機に、弁栄上人、澤木老師、内山老師を手がかりにしながら、自分の日常の生活のなかに自身の「信」・「行」を問うていく…それが「信ずる」・「行ずる」の実相かもしれない…が、自分の今・ここ。

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2020年6月17日 (水)

内山興正老師の復刻された著作をupしました。

「独断と偏見で選んだBOOKS紹介!」の内山興正老師のコーナーに、復興された著作一覧をupしました。

正法眼蔵・味読シリーズは、「行仏威儀」「仏性を味わう」「生死を味わう」「現成公案・摩訶般若波羅蜜を味わう」「八大人覚を味わう」が復刻されていますが、「行仏威儀」「仏性を味わう」以外は、現在取り扱われていない(古書)のようですね…。

詳細は、内山興正老師のコーナーをご参照ください。

〜復刻された内山興正老師の著作〜

拈自己抄

〔新装版〕進みと安らい―自己の世界

正法眼蔵―行仏威儀を味わう

【改訂版】いのちの働き―知事清規を味わう

坐禅の意味と実際―生命の実物を生きる

観音経・十句観音経を味わう

正法眼蔵―仏性を味わう

正法眼蔵―生死を味わう

正法眼蔵―現成公案・摩訶般若波羅蜜を味わう

正法眼蔵―八大人覚を味わう

宿なし興道法句参―沢木興道老師の言葉を味わう

普勧坐禅儀を読む―宗教としての道元禅

自己―ある禅僧の心の遍歴

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2020年6月16日 (火)

「信とは心の据え方、行とは如来と我との間の働きである。」(『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』より)。

昨日、買い物ついでに本屋さんに寄ったら…

山崎弁栄上人は、2016年に、
古武術の甲野善紀先生に紹介して頂いて、
愛知出張のついでに岐阜にある山崎弁栄上人の記念館へ、
その書画を見にいったことがあった。
始まりも終わりもない、
書き手と書・書と見る者(空間と時間)に切れ目のない、
ぶっつづきな書で…
身心持っていかれた。

本屋で、ぺらぺらぺらっ…とめくってみて…
次の箇所が目に飛び込んできた。

「(六)第十八願の要は信と行
信とは心の据え方、行とは如来と我との間の働きである。」(228頁)

あ〜…また、弁栄上人持っていかれたな。

というわけで、買ってしまった…。
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