「信」・「行」について。
先日、「信とは心の据え方、行とは如来と我との間の働きである。」の一行にひかれて、山崎弁栄 述、中井常次郎 記『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』求龍堂(2020年3月)を購入。
せっかくなので、備忘に抜き書いておく。
(六)第十八願の要は信と行
信とは心の据え方、行とは如来と我との間の働きである。欲生(よくしょう)とは光明中に活きんとの心。向上的生活を希(こいねが)う心。如来は衆生のために神聖、正義、恩寵の光明を放ち無量荘厳の浄土を構えてお待ち下さる、小さき虫や魚でさえ生きたい、生きたいと、生きるに役立つ食物は何でも口に入れる。それと共に、他から食われまいとする。人は精神的に虫や魚よりも進んでいるから、順境に在る間は生きたいと思っているけれども、逆境に入れば死にたくなる。知識が進めば不平不満が多くなる。現在に不平不満を抱き、遠きを恐れ、取り越し苦労をして自殺する。信仰に活きた人は形に捕われず、広い天地に活きているから、常に希望に満ち、幸福が身にあふれている。(228〜229頁)
「信」って何か?「行」って何か?「信ずる」「行ずる」とは、この身がどうすることか?!坐禅するものの、最重要事項。
澤木興道老師は、「信」や「行」について、『道元禅の神髄―「谿声山色」の巻講話 』(1963年)のなかで、次のように語っている。
信ずるといっても,何ぞ自分のために功利的に信ずるとか何とかなら,はげみがあっていいけれども,元来が自己を信ずることであり,自己と仏と継ぎ目のないことを信ずることである。しかるに世間で「信ずる」というと,あるものを「ある」と信ずる。そこでこの信という字は,向こうに「ある」ものを拝んで信ずることのように思うけれども,そんなものではない。つまり「澄み清き」ということである。真実の道理を澄み清く透明に疑わないことである。
この澤木老師の行は、以前、「澤木・内山・岸沢老師の『坐』と『行』」のコーナーに「真実の懺悔」として抜き書いたもの。「誓願と懺悔」について、内山興正老師は、『求道―自己を生きる』 (1977年)で、このように述べている。
『大乗起信論義記』に「衆生の真心還って自ら衆生を教化す。これ仏の誓願なり」とあるけれど,誓願というのはなにか特別にアタマで考えて向こうに描くことではない。衆生の真心,本来の自己,それがもう誓願なんだ。だから,生来の自分から,本当の自己を見れば,これは誓願として現れる。
ところがこんどは反対に,本来の自己から,生来の自分を見ると,生来の自分というのは,本当はこうあるべきなんだと言いながら,実はそれが実現していない。業という手カセ,足カセにはめられているから,本来の自己そのものをなかなか実現できないでいる。
その限りそこに懺悔という面が必ずある,なければならない。この誓願と懺悔というのは本来の自己と生来の自己とのカネ合いのところに当然でてこなければならない。それを一方的な話をしたら,どうせ間違っている。(112頁)
(内山興正語録にupしています。)
弁栄上人、澤木老師、内山老師の言葉をどう受け取るか?と考えてしまうと、つまらない。実際に、こういう「信」「行」をやってみる。それで、弁栄上人、澤木老師、内山老師のねらいとの「ずれ」を、うっすらとでも感じてみる。
岸沢老師は、『正法眼蔵全講』で「眼蔵の御文と,自分のしているところと,どこがどっつかえるか。そのどっつかえたところに身命をなげうつのだ。 」と言っているけれど、「ずれ」を契機に、弁栄上人、澤木老師、内山老師を手がかりにしながら、自分の日常の生活のなかに自身の「信」・「行」を問うていく…それが「信ずる」・「行ずる」の実相かもしれない…が、自分の今・ここ。
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