「信」・「行」について(3)。
「信とは心の据え方、行とは如来と我との間の働きである。」とあった『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』(山崎弁栄 述、中井常次郎 記、求龍堂、2020年3月)。
「心の据え方」という言い方にハマる。
「据え方」というのが、いいね〜。
そこで、もう1箇所、抜き書いておく。
【その八】黒谷瑞泉院別時での講和
(大正九年六月二日〜三日)
(一)念仏三昧を修する時の心の定め方(二日の朝)
安心とは心の据(す)え方であり、用心とは行(ぎょう)の仕方である。即ち念仏三昧の仕方が用心である。用心が正しくないと、行の効果が現われない。
信仰が生きているならば、それは次第に育ち、花咲き実を結ぶものである。この度の別時により、信心の芽を出す人あり、花咲く人あり、実を結ぶために養分を受ける人もあるだろう。何れも至誠(しじょう)心で念仏すれば育つ。
平生、五根五力(ごこんごりき)の信心の根を強くし、五日七日の別時を勤めて精進すれば、七覚支(しちかくし)の花が咲く。
七覚支は、人生でいうならば、結婚期に当たる。草木では開花期。神秘的にして、宗教では最も深く入る時代である。大乗小乗共に七覚支の理体は等し。小さな草でも、小虫や牛馬も人間も生まれる有様は皆似ている。
如来を離れては三昧に入れぬ。覚(かく)とは、心に得る覚(おぼ)えであって、これを冷暖自知といい、口では説明できぬ。一心に念仏すれば三昧に入り、如来に触れる。その覚えに七通りある。それを七覚支という。学問的に七覚支を知らずとも、一心に念仏する人は、自然に心得ている。
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