「念仏は情にありて、理にあらず」〜山崎弁栄。
山崎弁栄 述、中井常次郎 記『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』求龍堂(2020年3月)から抜き書き(105頁)。
聖徳太子の念仏法語に、念仏は情にありて理に非ず。風人の月下に我を擲(なげう)ちて、万邪妄れて聖理にかかわらざる如し。げにしか思う。たとい、いかほど理論の上に有神論が勝利を得、弥陀の実在の理論を巧妙に論ずるも、いまだ真に信仰の真髄を得たりと言うべからず。もし、それ自己の全生命を弥陀の中に献げたるのみならず、大慈悲の懐に融合して、小我は融け込みて、ただおのずと忝(かたじけな)さに南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とみ名を称うるほかなきに至るところに、念仏三昧の妙趣感ぜらるべく候。
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