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2020年11月24日 (火)

「初めは、仏の御姿は拝めない。それでよい。心に帰命の思いが起こればよい。」〜山崎弁栄。

山崎弁栄老師、「初めは、仏の御姿は拝めない。それでよい。心に帰命の思いが起こればよい。」

実は、「心に帰命の思いを起こす」ことが、一大事なんだろう。起こしても忘れる。一生をかけて(次の生も含めてかもしれない)、心に帰命の思いを起こしつづける。発心百千万発…というのは、内山興正老師

内山興正著『正法眼蔵 発無上心を味わう』)。

以下、山崎弁栄 述、中井常次郎 記『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』求龍堂(2020年3月)から抜き書き(27-28頁)。


称名(しょうみょう)の音声に功徳があるのではない。称名念仏とは、み名を称(とな)えて救いを求めることである。柿の渋いのは、甘くなる道中である。不完全は、完全になる道中である。

『観念法門』[善導著]に、観仏、念仏、別時念仏の勤め方、懺悔の心得の四段あり。観仏は観無量寿経に説かれてあるむつかしい方法である。その中の思惟(しゆい)ということは、心を整え、相手を自分の心に取り入れる工夫である。これができると正受(しょうじゅ)即ち三昧を得る。

  (略)

別時念仏を勤めると、信仰が活きて来る。理論ばかり聞いていては、活きた信仰にはならぬ。俵の中の米は生活力を持っているけれども、水田の米のように活きていない。子供は母の胎内で大きくなり、十分育てば胎外に出されて養われる。

阿弥陀様の御徳を聞きながら、名号を称える時代を資料位(しりょうい)という。米俵の中の米や、胎児のような信仰である。まだ活動的でない。種を選んで蒔(ま)きつける時代である。種に相当した草木ができるように、信仰でも真空真如の理を聞き、それが実現すれば羅漢(らかん)である。

信仰の無い人は、暗(やみ)の生活である。生まれぬ前も、死の後も知らぬ。分からぬ。  (略)

人間は仏法を聞くことのできる心即ち仏の種が育つ心田地(しんでんち)を持っている。四諦(したい)、十二因縁(じゅうにいんねん)の種を蒔けば羅漢という実を結ぶ。豆の種は杉や桧(ひのき)の実に比べて大きいけれども、杉や桧のように大木にならぬ。念仏は杉や桧の実のように小さく、何でもないようであるが、仏という大木になる。

  (略)

初めは、仏の御姿は拝めない。それでよい。心に帰命(きみょう)の思いが起こればよい、南無阿弥陀仏と称(とな)えて、帰命すれば、仏は我が心に宿って下さる。

資料位の信仰で、素養を作り、加行(けぎょう)位で一心に念仏を励(はげ)めば、次第に信仰は進み、蒔いた種が、光明に照らされ、芽生えて来る。これを信仰の喚起位という。次第に見道(けんどう)位といって、活動的信仰となり、仏作仏行(ぶっさぶつぎょう)の体現位に進む。


 

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