一発ギリの発心・自己ギリの発心。
今年一年のコンセプト…
思うところはあるけれど、
これはまた改めて語りたい。
そのコンセプトに関連して、
浮き沈み現れたり消えたりするまま、
思いをめぐらせていて、
想い起こされたのが、
内山興正老師の「発心」の話。
内山興正『正法眼蔵 発無上心を味わう』柏樹社、1994年、144-146頁。
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そうすれば千億発の発心をしようと、どれもこれも「いまの発心をいま発心する」一発ギリの発心だ。千億人の発心といえども、独り独り自分自身が発する自己ギリの発心だ。千億人だからひとまとめにして済むわけではない。却って新鮮な一発心のなかに千億が籠められ、千億人の籠められた一発心を今ここで発(おこ)さなければならない。
「修証転法もまたかくのごとし」修行も証果もあるいは転法輪も同じこと。私が今ここで喋っていることも何十年来同じようなことを話しているようだけれど、しかし実はいまナマナマしく喋っている。新たに新たにいまぎりのいのちを生きている。
「艸木等にあらずば、いかでか身心あらん」
草木といういま出会う処に働けばこそ、発心というものがある。修証転法もある。この身心もある。身心というのはいつも草木ぐるみの身心なのだから、実際に働くのでなければ生きる生命にはならない。わが身心は一切法(草木)を生命体験し、働く処にいのちを得るのだ。
「身心にあらずば、いかでか艸木にあらん。艸木にあらざるがゆゑにかくのごとし」
そして一切法(草木)はわが身心に生命体験され、働かれる処にこそ存在する。つまりいつもいう「一心一切法、一切法一心」だ。草木というのは、生(なま)のいのちとして身心と一つになっている在り方以外には本当はない。
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新鮮な発心、か…。
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