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2021年4月29日 (木)

有時…「尽地に万象百艸あり、一艸一象おのおの尽地にあることを参学すべし」。

Img_5196先日、通りを歩いていたら、タバコを吸っている人がいた。

その人と距離はあったが、風に乗ってタバコの臭いがこっちまでくる。
タバコの煙は、好きじゃない。避けて通とうろうと思ったが、すれ違う一瞬のことだし…と思い、その人を視界に入れながら、そのまま近い距離ですれ違う。

あれっ……?!

すれ違いざまに、その人のたばこを吸い込んで吐き出す気持ちのよさのようなものが、感じられた。

これは、この感じは、なんだろう?

『有時』の「展開」ということと今年の自分のコンセプトの「勢い」ということが、自分の中で重なる…。

この感じ(方向感覚)は、大事かもしれない。
「尽地に万象百艸あり、一艸一象おのおの尽地にあることを参学すべし」
参学への引っ掛かり。

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内山興正著『正法眼蔵ー有時・諸悪莫作を味わう』柏樹社、昭和59年。

(33-35頁)

「恁麼の道理なるゆゑに、尽地に万象百艸あり、一艸一象おのおの尽地にあることを参学すべし。かくのごとくの往来は。修行の発足なり。到恁麼の田地のとき、すなわち一艸一象なり、会象不会象なり、会艸不会艸なり」

「恁麼の道理」----このような道理だから、尽地に万象百艸(草)があり、一草一象が尽地にあることを学びなさいという。万象百草とは形のあるあらゆるものという意味です。尽地について詮慧禅師の「御聴書抄」には、「この尽地は自にあたる。自己の上に万象をあらわすに似たり。是什麼物恁麼来の尽地なり」とある。つまりあらゆるものは自己の生命実物の地盤にあるということです。われわれがどんなものを見ようと、どんな世界を体験しようと、それらはみな、この自己の生命実物地盤にある。だからあらゆるものは自己の生命の内容なのだ。その一草もその一象も、この私の生命の展開の尽地でないものはないということです。

そしてかくのごとくの往来、一切を自己の生命の内容としてみるという生きかた、仏道修行の発足だという。もっと解りやすくいえば、私がいつもいう「出逢うところわが生命」です。みんな自分の生命の分身なのですね。たとえば私のところへ客がきて、いろいろな煩悩を打ち明ける。その時、それは実は他人事ではなく、すべて私の生命の問題なのだ。あるいは運転手が自動車を運転するために、ハンドルを握ったとき、その運転手にとってハンドルそのものが、わが生命そのものだという生きかた、それが仏道修行だという。

そして「到恁麼の田地のとき、すなわち一艸一象なり」----つまり修行によって行きつくところも一草一象がそのまま一草一象だということ。いま典座がご飯を炊くときは、まっすぐ飯炊きになることである。

(略)

「会象不会象なり、会艸不会艸なり」とは妙な言葉ですが、会とは理解すること、つまりこういうことは理解しようと、しまいと、結局は一切が自己の生命の内容だから同じことだということ。面山禅師の聞解の註釈には「会するも不会するもの心の有時なり」とある。また蔵海禅師の私記には「あにただ会不会のみにかぎらんや、迷象不迷象なり」「悟草不悟草なり」とある。つまり迷といい、悟といっても別物ではない。ただ自己の生命の風景にすぎない。

いつもいうように、仏法の話は、迷いを捨てて悟りにつくというような話ではない。迷いも悟りも、凡も聖も。会も不会もすべて自己の生命の風景だから、そういう自己の生命の内容として一目で見る。そういう自己の生命の実物地盤に立ち帰った処から、まっさらに見直すということです。

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