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2021年6月28日 (月)

姿勢(2)。

20210628 4月に買ったテルミンpremium。
わざわざ未使用品を中古で買って、せっせと練習していたのだが、イヤホンのコードをひっかけて取り落としそうになり…ピッチアンテナを折ってしまう(泣)。

その上、実は本格的なテルミンも購入したのだけれど、初期不良につき、販売元に送り返し…(泣)。

不遇は、テルミンばかりでなく…先日は、かったばかりの折り畳み傘を取り落として、パーツが割れて壊れるし…(泣)。

なんてついてないんだ〜_| ̄|○

と、がっかくりしながら歩いていたら、

「感謝だな」

という思いがうかんだ。

ちょっと、びっくりした。

けれど、それがおもしろいことに、思いがうかんだとはいったが、なんてついてないんだ、はあ〜と頭が下をむいた感じと同時に、これは「感謝だな」と思えた、と言ったほうが正確だ。

…からだが生む言葉。

ということに気づいたからといって、あいかわらず、自分をとりまく嫌な状況はやっぱり嫌。すっかりトラウマ状態のものもあるし…といいつつ、嫌なことを実体化して握りしめているのもわかるので、すこし握ったてのひらを開いてみると、実態の希薄な不安・不満ばかりで気分悪い。

そんななか、1年前に読んだ、教育者で浄土真宗・東光寺の住職でもあった東井義雄先生が紹介され序文も書かれていた鈴木章子著『癌告知のあとでー私の如是我聞』(探究社)の話が思い起こされた。

この話は、東井先生の『仏の声を聞く』(探究社)の中で語られていて、それを思い出したのだが、東井先生は、鈴木章子さんの次の詩を紹介していた。

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おやすみ
 
「お父さん ありがとう またあしたあえるといいね」と手を振る
テレビをみている顔をこちらに向けて主人が
「お母さん ありがとう またあしたあえるといいね」
と手をふってくれる
今日一日のしあわせが 胸いっぱいに あふれてくる
そして 朝は
「お父さん あえたね」
「お母さん あえたね」と
恋人同志のような暮らしをしています
振りかえってみると
この四十六年間 こんなあいさつを
一度だって したことがあったでしょうか
みんな
がんをいただいて気づかされたことばかりです

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こういう感謝は、自分にはないな…。

それから、ふっと、ぶつぶつ不満たらたらな周りを見渡してみると、例えば、嫌で嫌で、くそ腹たつことだって、そのことの苦情を受けて、いろんなことを考えて対応してくれる人たがいるじゃないか…ということが見えて来る。そういう人たちは、それが仕事だから当たり前、じゃあない。やって当たり前かどうかじゃなくて、仕事としてやっている、そこに生身の汗かくその人がいるじゃないか…という姿に、うっすら気づく。

出会うところわが生命(内山興正老師)

は、自分の姿勢のなかに聴こえてくるのだろうな。

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2021年6月27日 (日)

「月には感ぜさせる力があり、水には受ける力があるから、月影は水に映る」〜山崎弁栄。

山崎弁栄 述、中井常次郎 記『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』求龍堂(2020年3月)から抜き書き(106-107頁)。

 

【その六】京都市中井宅での講話

(大正9年3月7日午後)

講演 宗教の意義

序論

宗教には学説と実行の二面があります。学説ばかりでは心の満足が得られません。学説は信仰を呼び起こすたよりとなりますが、宗教心を満足さすものは、如来恩寵の光明であります。

太陽あるも目なくば見えず、目あるも光なくば見えません。如来は心霊界の太陽で、信仰は如来の光明を見る目であります。水月感応といって、月には感ぜさせる力があり、水には受ける力があるから、月影は水に映るのであります。如来の巧妙は、信仰の水ある処に宿ります。神の実在を、どんなに巧みに書いても、神ができたり、否定したからとて消えるものでもありません。支那で神とえば、「鬼神」のことでありまして、死人の霊をいいます。これを宗教の本尊と誤解されぬように、「仏」という字を用い、「如」とも書いて、神という字を用いなかったのであります。如といえば、哲学的に聞こえますが、宇宙いっぱいの実在なる霊体を如という。それから現われ給う故に如来と申します。如来は宇宙全体を表わし、大我ともいいます。大我に対して我々を小我と申します。大我と小我とは精神的に合一する性質のものであります。我生きるに非ずして、絶対なる大我により活かされているのであります。

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