「月には感ぜさせる力があり、水には受ける力があるから、月影は水に映る」〜山崎弁栄。
山崎弁栄 述、中井常次郎 記『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』求龍堂(2020年3月)から抜き書き(106-107頁)。
【その六】京都市中井宅での講話
(大正9年3月7日午後)
講演 宗教の意義
序論
宗教には学説と実行の二面があります。学説ばかりでは心の満足が得られません。学説は信仰を呼び起こすたよりとなりますが、宗教心を満足さすものは、如来恩寵の光明であります。
太陽あるも目なくば見えず、目あるも光なくば見えません。如来は心霊界の太陽で、信仰は如来の光明を見る目であります。水月感応といって、月には感ぜさせる力があり、水には受ける力があるから、月影は水に映るのであります。如来の巧妙は、信仰の水ある処に宿ります。神の実在を、どんなに巧みに書いても、神ができたり、否定したからとて消えるものでもありません。支那で神とえば、「鬼神」のことでありまして、死人の霊をいいます。これを宗教の本尊と誤解されぬように、「仏」という字を用い、「如」とも書いて、神という字を用いなかったのであります。如といえば、哲学的に聞こえますが、宇宙いっぱいの実在なる霊体を如という。それから現われ給う故に如来と申します。如来は宇宙全体を表わし、大我ともいいます。大我に対して我々を小我と申します。大我と小我とは精神的に合一する性質のものであります。我生きるに非ずして、絶対なる大我により活かされているのであります。
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