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2021年7月 5日 (月)

「霊化とは有害なる欲を有益にすることである」〜山崎弁栄。

山崎弁栄 述、中井常次郎 記『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』求龍堂(2020年3月)から抜き書き(177-178頁)。

 

【その十】当麻山無量光寺別時での講話

(大正9年8月4日よりの十二光仏講義)

題 宗教形而上論

(五)無対光

無対光は仏道の帰趣即ち終局を示す。仏と衆生とには反対性があるけれども、衆生が如来の光明によって、次第に霊化された終局には、本始不二の状態となる。

衆生は相対、有限にて、仏は絶対、無限である。

十二光のうち無量光、無辺光、無碍光は宇宙論である。

我々の心が四大智慧と合一するには、無碍光の実行によらねばならぬ。宗教心理の二面として人の心に開発と霊化の二作用がある。

 

仏性(形式)と煩悩(内容)

ヘルバルト[1776〜1841]曰く「教育とは各自が持てる知能を啓発することである」と。牛馬の如きを如何に教育するとも、高等なる知能が現われない。即ち注入は教育の良き方法ではないことが知られる。もし注入により能力が出るならば、人も馬も教育の方法宜しきを得ば、等しく知者とならねばならぬ。しかるに、事実は生まれながらの持ち前が異なる故に、教育は夫々の天分により啓発の方法、程度を異にせねばならぬ。

煩悩は凡夫の内容実質である。煩悩は肉体のために起こる。仏の光明に霊化されると、煩悩は断滅するのではないけれども、有効に使われるようになる。即ち仏道に叶うようになる。貪りも、食色の欲もある程度までは有用であるが、度を越せば身を害する。欲は必ずしも悪いものではない。仏は一切衆生を助けたいという欲を持っている。霊化とは有害なる欲を有益にすることである。

摂化の次第ーー初発心より仏地に到る階級(178-179頁)

(略)

聖道門と浄土門の観点の差(180頁)

(略)

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2021年7月 4日 (日)

「如来の光明獲得の目的は自己の人格を改造する処にあり」〜山崎弁栄。

山崎弁栄著『人生の帰趣』(岩波文庫,2018年)より(354-355頁)。

人格改造の清浄光

如来の光明獲得(ぎゃくとく)の目的は自己の人格を改造する処にあり。人類は他の動物と異にして必ずミオヤの光明によりて自己を覚醒してあるべきように自己を指導し改造して光明の中に生活すべきものである。否(い)な光明の中に入るが故に人格が一転するのである。

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