「霊化とは有害なる欲を有益にすることである」〜山崎弁栄。
山崎弁栄 述、中井常次郎 記『山崎弁栄〜光明主義講話 大悲のことば』求龍堂(2020年3月)から抜き書き(177-178頁)。
【その十】当麻山無量光寺別時での講話
(大正9年8月4日よりの十二光仏講義)
題 宗教形而上論
(五)無対光
無対光は仏道の帰趣即ち終局を示す。仏と衆生とには反対性があるけれども、衆生が如来の光明によって、次第に霊化された終局には、本始不二の状態となる。
衆生は相対、有限にて、仏は絶対、無限である。
十二光のうち無量光、無辺光、無碍光は宇宙論である。
我々の心が四大智慧と合一するには、無碍光の実行によらねばならぬ。宗教心理の二面として人の心に開発と霊化の二作用がある。
仏性(形式)と煩悩(内容)
ヘルバルト[1776〜1841]曰く「教育とは各自が持てる知能を啓発することである」と。牛馬の如きを如何に教育するとも、高等なる知能が現われない。即ち注入は教育の良き方法ではないことが知られる。もし注入により能力が出るならば、人も馬も教育の方法宜しきを得ば、等しく知者とならねばならぬ。しかるに、事実は生まれながらの持ち前が異なる故に、教育は夫々の天分により啓発の方法、程度を異にせねばならぬ。
煩悩は凡夫の内容実質である。煩悩は肉体のために起こる。仏の光明に霊化されると、煩悩は断滅するのではないけれども、有効に使われるようになる。即ち仏道に叶うようになる。貪りも、食色の欲もある程度までは有用であるが、度を越せば身を害する。欲は必ずしも悪いものではない。仏は一切衆生を助けたいという欲を持っている。霊化とは有害なる欲を有益にすることである。
摂化の次第ーー初発心より仏地に到る階級(178-179頁)
(略)
聖道門と浄土門の観点の差(180頁)
(略)
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