「本當の眞理は本の中などにはありません。眞理はその動きの方に、その生活態度にあるのです。」〜澤木興道。
澤木興道述、稲垣秀雄編『生活即禅』昭和15年、山喜房佛書林。
(8-9頁)
劍術にせよ、柔術にせよ、昔は實用向きであつたかも知れん。生命を保護するためのものだつたかも知れんが、今日は人格を鍛錬さすためのものです。實用にした時代でも『飛び道具は卑怯である、名を名乗れ』といふ工合にして勝負をして、決して卑怯なことをしてゐない。
武術は人格向上のためのものです。武道は人格を涵養して、日本人を拵へるものである。人格を養う道も色々あるが、本當の人格を作るのが武道である。自己本來の面目を打ち出して來るのが劍道である。柔道の扱心流目録に『静意の巻』といふのがある。それに書いてあります『武道は柔道にせよ、劍道にせよ、心を取扱ふものだ、誰の心を取扱ふかと云へば、自分の心を取扱うのだ。どう取扱ふかと云つたら、眞理に到達するまで、宇宙の眞理と波長が合ふまで取り扱へ』と云ふ意味の事がある。眞理は本の中にあるものだと思つてゐる連中があつて、本許り見て青瓢箪になつて居ります。本當の眞理は本の中などにはありません。眞理はその動きの方に、その生活態度にあるのです。
(41頁)
武道は、敵を方便として前において假に負け勝ちを論じ、精一杯の力を出して眞の自己の、今の、こゝの、はたらきを鍛錬し創造するものである。
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