「われわれが生命という場合、抽象的な生命概念であってはならない。具体的に「いまここの働き」を働くのでなければならない。」〜内山興正。
「私の働き場処に生命がゆきわたるー知事の心づかい」『【改訂版】いのちの働きー知事清規を味わう』内山興正著(大法輪閣)。
(33-36頁)
前に仏法とは、結局「生命が生命として働く」ことだといったけど、いま叢林で知事として大切なのは、一つの配役のなかで本当に生命のある仕事をすることです。なぜならばその生命というものを突きつめれば、いまここのあり方を抜きにしては何もないからです。だとえば西洋の哲学者が「生命」ということを論ずるのなら、これはもう抽象論なんだ。ヘーゲルは「存在と思惟の一致」という。事実、ヘーゲルの哲学はそこから始まるわけだが、しかしそれは、「存在と思惟の一致」ということを考えているだけなのです。もし本当に存在と思惟が一致しているのなら、例えば「火」ということを考えたら、とたんに頭がやけどしなくてはならない。ところがそれを考えてもやけどしないところをみると、結局は一致していないわけだ。
今仏法としては、そういう抽象概念ではない。「生命」という限りは口ではいえない。本当の生命とは、いま俺の生きている事実をいっているので、決して「生命」という言葉ですませてよいものではない。生命とはまったく現ナマとして生きていることで、いくら冷蔵庫に入れておいても保存はきかない。だから一瞬先に起こったことは、ここではもう通用しない。生命の実物は保存のきかない現ナマとして、いつでもいまここのあり方として生きている。
(中略)
つまりわれわれが生命という場合、抽象的な生命概念であってはならない。具体的に「いまここの働き」を働くのでなければならない。それがいまわれわれの叢林にあっては配役です。典座は典座という配役において、園頭は園頭という配役において、具体的な自己の生命を働かなくてはならない。「オレはオレの生命を生きるんだ」といっても、何もしないのなら、それはちっとも生命を生きていることにならない。大切なのは、いつでもこの具体的働きなんだ。
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