「行」の言葉ー「してみれば四聖諦にしても、『苦のもとは欲望である』、『それゆえ欲望を滅すれば、寂滅の楽が得られる』などといういいかたをすればアヤマリです。」〜内山興正。
してみれば四聖諦にしても,「苦のもとは欲望である」,「それゆえ欲望を滅すれば,寂滅の楽が得られる」などといういいかたをすればアヤマリです。
「寂滅の楽を得ようとする,そのことが欲望ではないか」と,かって発したわたしの疑問は,けっしてアヤマッテはいませんでした。寂滅の楽をえんとする欲望がそのまま,かえって修行者をして,抜くべからざるディレンマに追いこむだけですから。
−真実の佛法のおしえは,そんなことではありません。
「欲から苦が生ずる私がある。」
−まず苦,集の二諦は,かくおしえます。これは流転輪廻する自分のすがらのことをいうのです。
しかし同時に「これとまったくちがった自己」があります。それはつぎの滅,道の二諦がおしえる。
「道をあゆむなかには,寂滅している自己がある。」
ということです。
四聖諦はただこの二つの自己の道をならべてみせるだけです。もしこれを聖書のことばを借りていえば,
「肉によりて生まるるものは肉なり。霊によって生まるるものは霊なり。」(ヨハネ三の六)
あるいは
「肉にしたがうものは,肉のことをおもい,霊にしたがうものは,霊のことをおもう。肉の念(おもい)は死なり。霊の念は生命(いのち)なり。平安なり。」(ロマ八の五)
ということです。まことにかかる言葉があればこそ,聖書のなかに,正しき宗教があることを,わたしは信じます。それに反し,もしたとえ佛教者と自称するひとたちといえども,「それゆえ寂滅の楽を得んがため」にと,この二つをつなぎあわせるとき,とたんに功利的な新興宗教とちっともちがわぬものとなってしまうことを,あらためて確認いたします。
真実の佛法は,「本来寂滅の自己なるがゆえに,寂滅の道をあゆむ」のであり,あるいは「寂滅の道をあゆむために,寂滅の道をあゆむ」だけです。つまり真実の自己とは,「思い以上の自己」なるがゆえに,「思い以上の道」をあゆむだけです。そしてこの「思い以上」というのが,坐禅なのです。
だから坐禅してぼつぼつ思いをしずめようとしたとて,じつは坐禅のなかには,しずめるべき何ものもありません。坐禅はただ(祗管)坐禅するだけです。坐禅は,坐禅の独悟現成でのみあります。
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