「山河の親切にわが知なくは、一知半解あるべからず」〜内山興正著『正法眼蔵 坐禅箴を味わう』より。
内山興正著『正法眼蔵 坐禅箴を味わう』(176〜178頁)より。
「山河の親切にわが知なくは、一知半解あるべからず」
それで山河とわれと分かれようがないほどの親切は、これを能所なしと知るわが知がなければ一知半解もない。つまり事実われが坐禅して、山河とわれと一枚と覚め覚めてみなければわからないということ。
普通われわれは、我(自心)と世界(万法)とは別々にあるものだと思っている。ところが坐禅という生命実物では自心と万法の二つはない。自心は万法を生命体験する処に生きているのだし、万法は自心に生命体験される処に在る。自心と万法はひとひっくるめで初めて生(なま)のいのちであり生命実物なのだ。これを「心法一如」とも「一心一切法・一切法一心」ともいう。
それに対して西洋哲学ではすべてを主観と客観に分けてしまい、何の疑問ももたずにこの分かれた二つが絶対的にあると前提してしまっている。そして認識というのは、この主観と客観と関係し合う処に初めて成立するものと考えているのだが、それが初めから違うのだ。本当にあるのは生きているナマの実物だけだ。そのなかに主観と客観という両面がないとはいえない。だから分けても結構だ。しかし主観と客観と別個に存在し、その二つが関係し合うことによって認識がおこるというのは全く間違っている。西洋哲学的考え方というのは、その点野蛮だと思う。初めから大雑把に分けてしまうのだから。
西洋医学部の場合でも頭と胴体とまず切ってしまい、頭は頭で研究し、胴体は胴体で研究し、後でくっ付き合わせれば人体のことはわかると考えているから全く危い。一且二つに分けてしまったらもう全体としての生命は通わないからだ。
いま仏教の場合、われと世界と二つにわかれてしまった後に一つだというのではない。二つに分かれる以前のいきいきしたナマの生命実物のなかに、生命体験するわれ(能)と生命体験される世界(所)の親切な二面があるというのです。そしてそういうことを知り得るのはまさにわれの側だから「わが知なくは一知半解あるべからず」だ。私は世界を生命体験しながら生き、世界は私に生命体験されながらあるけれど、そういう事実を直接的に知って生きているのはまさに自心の方だ。
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