新年〜甲辰。
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「私の働き場処に生命がゆきわたるー知事の心づかい」『【改訂版】いのちの働きー知事清規を味わう』内山興正著(大法輪閣)。
(33-36頁)
前に仏法とは、結局「生命が生命として働く」ことだといったけど、いま叢林で知事として大切なのは、一つの配役のなかで本当に生命のある仕事をすることです。なぜならばその生命というものを突きつめれば、いまここのあり方を抜きにしては何もないからです。だとえば西洋の哲学者が「生命」ということを論ずるのなら、これはもう抽象論なんだ。ヘーゲルは「存在と思惟の一致」という。事実、ヘーゲルの哲学はそこから始まるわけだが、しかしそれは、「存在と思惟の一致」ということを考えているだけなのです。もし本当に存在と思惟が一致しているのなら、例えば「火」ということを考えたら、とたんに頭がやけどしなくてはならない。ところがそれを考えてもやけどしないところをみると、結局は一致していないわけだ。
今仏法としては、そういう抽象概念ではない。「生命」という限りは口ではいえない。本当の生命とは、いま俺の生きている事実をいっているので、決して「生命」という言葉ですませてよいものではない。生命とはまったく現ナマとして生きていることで、いくら冷蔵庫に入れておいても保存はきかない。だから一瞬先に起こったことは、ここではもう通用しない。生命の実物は保存のきかない現ナマとして、いつでもいまここのあり方として生きている。
(中略)
つまりわれわれが生命という場合、抽象的な生命概念であってはならない。具体的に「いまここの働き」を働くのでなければならない。それがいまわれわれの叢林にあっては配役です。典座は典座という配役において、園頭は園頭という配役において、具体的な自己の生命を働かなくてはならない。「オレはオレの生命を生きるんだ」といっても、何もしないのなら、それはちっとも生命を生きていることにならない。大切なのは、いつでもこの具体的働きなんだ。
キャンプというより、メスティンという飯盒にハマっている、と言った方が正解。メスティンで炊いたごはんは、美味い!
ちゃっちゃと台所でつくったほうが早いのだけれど、キャンプみたいにして食べるのも楽しいので、週末は部屋のなかで、買い足したメスティンでお汁物も作りながら、メスティンでご飯を炊く。
メスティンでインドア・キャンプをしていて、気づいたことが一つ。
5月、退院してから、毎朝体重測定をしている。
毎日の体重増減に一喜一憂しても仕方ないのだけれど、体重は、前の日の食生活をけっこう反映する。
前夜が、お好み焼き+牛すじ煮込み+ホッピーの次の日の体重は、数百グラムのレベルだけど増える。
おかずに加工品が多くなると、やっぱり増えるし減らない。
そういう食事は、量が多いわけではないと思うのだが…塩分の問題なのか消化の問題なのか…??
それで、インドア・キャンプ。
どう考えても、食べる量は、いつもと同じか多いはず。でも、次の日の体重は増えてないか減っている。
なんでかな~?
と考える…。思いつくことは、食事にかける時間。圧倒的に、いつもより長い。ごはんを蒸らしている間に、お肉など焼きながら、話もしながらゆっくり食べて、蒸らし終わったごはんとお汁で、またまたゆっくり食べて…。
きっと、このペースで食べているのが、からだ的にいいんだろう。
きっと、食べるにも、対話が重要なんだな。
からだが食べ物と対話する。自分(の意識)は、からだと食べ物の媒介なのかも。
まずは、じゃましないようにしないとね。
2020年4月、COVID-19の最中、全身麻酔の手術を初体験。
入院中のご飯の記録をきっかけに、『典座教訓』をコンセプトに、毎日のごはんの記録を再開。ほぼ毎日、朝・昼・夜のご飯をただただ更新中(1週間分ためてupも多いですが…)。
ここから、どうぞ🙇♂️
新年は,一炷(チュウ)の坐禅から始まる。
朝起きて、洗面、身なりを整えてから,一炷(チュウ)。
そのあと,昨夜準備したおせちとお雑煮を小一時間かけてお重とお膳に盛り付けてからいただく。
坐禅は、最近腰割り(四股)してるので、腰の感じが良かった。
おせちは、昨夜除夜の鐘聞きつつ、am1時過ぎまでかかって作った(毎年恒例…(^^;)ゞ)。
紅白のエンディングの時点で、残った一品、作るのやめよーかなぁ…と思ったのけれど、予定通り最後まで作ってよかった。
夜は、またまたおせちを、10月に仕込んだ手作りビールで…。
初めて飲む。
泡立ち今ひとつ。
でも、美味。
今年も、仕込もう!
仕事は、これまで仕込んだものを、形にしていきたいな。
ともあれ、今年もよろしくお願いしますm(^^)m
新年の始まりは,一炷(チュウ)の坐禅から。
朝起きて、洗面、身なりを整えてから,一炷(チュウ)。
そのあと,昨夜準備したおせちとお雑煮を小一時間かけてお重とお膳に盛り付けてからいただく。
毎年,年初めに,一年間の参究コンセプトを決める。
昨年は,「前後際断」。
今年は,「前後際断」。
昨年は、そうせざるを得ない…という思いで、
「前後際断」に決めたような感じ。
というのは,一年経って振り返って思うこと。
そう振り返ってみると,今年のコンセプトは,
やっぱり…もとい,新たに「前後際断」。
今年は、このコンセプトを自分の内の言葉として、
参究して行けそう…。
昨夜は、およそ2ヶ月と一週間ぶりに22時前からパンづくり。
久々つくるので、段取りやらなんやらぎこちなく…
出来上がったのは、0時を回ってから。
というわけで、今日の朝ご飯は、
焼いたパンに豚肉とお野菜をソテーしたものをはさんだサンド。
パンは、こんなんだったけ?
と思うくらい、ずっしりした出来上がり。
もっとふわっとした感じがよかったなぁ…
と思ったのだけれど、
それがお肉の食感とよく合って…
意外にグー。
レンティルのスープとコーヒーを添えて、
満足、満足。
バタバタ忙しい~!!
を言い訳にしないで、
月に2回は、手作りパン、焼きたいなぁ…。
只今、23時45分。
やっと明日の朝ごはん用のパンが焼けた。
先日、お取り寄せしたゴルゴンゾーラマスカルポーネチーズを乗せて食べる。
楽しみだなぁ~。
ほんとは、ビールも添えたいところだけれど、平日の朝。
コーヒーにしておこう~(^o^;)。
などと、つらつら考えていると、
「今夜は今夜の仕事として,明日のお粥の用意をしておく」…
つまり、
「未来に向かってアテは描かないが,しかし今の方向ははっきりして生きる」
(人生料理の本―典座教訓にまなぶ (1970年)より)
を、ふと、思い出した。
本当は,先週日曜日,朝食はパンを焼いて…と思っていたのだけれど,体調が戻らず断念…。
今朝こうして,パンを焼いて朝ご飯を準備できたということは,身心の調子も戻ってきているということだ。
パンづくりは,3月の初めにつくって以来で久しぶりだし、季節も変わったので、発酵も温度計で確認しながら行なった。
魚焼きグリルの火加減も、今ひとつ自信なし…。
タイマーを1分に設定して,注意しながら焼く。
具の鶏胸肉は、先日仕込んだ麦の塩麹で漬け込んで下処理。
仕込んでから9日,ちょうどいい発酵の具合。
フライパンでソテーした鶏胸肉は,米の塩麹で漬け込んだものよりもやさしい味がした。
焼いたパンは半分にスライスしてニョクマム入りのケチャップをぬって,鶏胸肉に玉子の薄焼き,ピーマン,トマトをサンド。
それにくつくつ煮たレンティル・スープ。
優しい味の手作りパンとあったかいレンティル・スープ。
胃も温まって,ひさびさ身心ほっこり。
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